僕のいう「神経政治史学」で扱われうる例として、1905年の日本の日比谷・焼き打ち事件を、きのうの『道草日記』で挙げました。
史料をもとに、当時の日本の民衆一人ひとりの“脳の神経模様”の集合をコンピュータ上に再現した上で、この事件をどうすれば当時の政府は防げたのかを考察する、というものです。
例えば、
1)当日に予定されていた日比谷公園での集会の開催を認めていたら?
2)戦う力が残されていなかったことを当時の政府が公表していたら?
3)民衆が興味をもちそうな何らかのスキャンダルを暴露していたら?
といった問いをもとに、“脳の神経模様”の推移のシミュレーションを行い、その後の民衆の暴徒化が防げたかどうかを検証します。
従来の政治史学(歴史学)では、このような考察は、
――意味がない。
とされ、却下されます。
いわゆる、
――歴史に「イフ(if)」はない。
です。
それでも、あえて考察をすれば、
(たぶん3番目が正解なんだろうなぁ)
と、僕は思います。
1)では暴徒化を防げなかったでしょうし、2)で暴徒化は防げたかもしれませんが、逆にロシアとの再戦に怯えてパニックになる可能性も容易には否定できません。
なので、3)であろうと想像をします。
ただし――これは、ただの想像であり、もっといえば、空想です――従来の政治史学が意義を認めないのは、学問の観点からは、当然といえます。
が――
もし、“神経政治史学”が産声をあげたなら――
この空想が学問的な検証に耐えうる考察となりえます。
その結果、実は、
――1)でも十分に民衆の暴徒化は防げた。
とか、
――2)でも民衆がパニックを起こすことはなかった。
とかいった結論を得るかもしれない――
そうなれば、将来あるかもしれない第二、第三の日比谷・焼き打ち事件を、人類は確実に防ぐことができるようになる――
そう思います。