“脳の神経模様”がデータとして採取できるようになれば、政治家にとって世論調査は、今日の天気予報のようなものになる、ということを――
きのうの『道草日記』で述べました。
そこまで神経政治学が発達したら、“脳の神経模様”を司っている原理について――また、民衆一人ひとりの“脳の神経模様”の集合と、いわゆる民意との関係性について――かなりのことがわかっているでしょう。
そうなったら、今度は“神経政治史学”の登場を待ちたいと思います。
――神経政治史学
というのは、僕の造語です――これまでに、この言葉を使った人は、たぶん誰もいないと思います。
“神経政治史学”では、歴史上の政治的事象について、史料をもとに、当時の民衆一人ひとりの“脳の神経模様”の集合をコンピュータ上に再現します。
その上で、歴史上の「if」をいくつか設定し、その設定された条件のもとで、再現された“脳の神経模様”の推移がどのように変化しうるかを検証します。
例えば、1905年の日本の日比谷・焼き打ち事件を例にとります。
日比谷・焼き打ち事件では、日露戦争の講和条約に納得できなかった日本の民衆が、東京の日比谷公園で集会を開こうとして警察に阻止されて暴徒と化し、新聞社や大臣官邸、警察署・交番などを次々と破壊しました。
日本は、莫大な戦費と膨大な人命とを費やし、辛うじてロシアを破りました。
アメリカの仲介で講和条約が成るのですが、賠償金は一銭もとれず、僅かな領土や租借地を手にしたのみでした。
そのような際どい講和条件を当時の政府が飲まざるをえなかったのは、当時の日本に戦争継続の余力が残されていなかったからです。
が、その事実を当時の政府は隠しました――日本の民衆は、もはや戦う力が残されていないことを知らされませんでしたから、賠償金が一銭もとれなかったことに著しく腹を立て、暴徒と化したと、考えられています。
この事件によって、東京の治安は、ほぼ失われ、当時の政府は戒厳令を布き、軍が暴徒の鎮圧に動きました。
その後の日本が太平洋戦争(大東亜戦争)へ流れ込んでいく最初の兆候と捉えられることの多い事件です。
この事件が、なぜ起きたのか――
“神経政治史学”では、まず当時の史料をもとに、当時の日本の民衆一人ひとりの“脳の神経模様”の集合をコンピュータ上に再現します。
その上で、当時の政府は、どうすれば日比谷・焼き打ち事件を防げたのかを考察します。
1)当日に予定されていた日比谷公園での集会の開催を認めていたら?
2)戦う力が残されていなかったことを当時の政府が公表していたら?
3)民衆が興味をもちそうな何らかのスキャンダルを暴露していたら?
これらの問いをもとに、“脳の神経模様”の推移のシミュレーションを行い、その後の民衆の暴徒化が防げたかどうかを検証します。