マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

“生物社会科学”で最終的に議論されてほしいこと

 ある時刻における脳の中の全ての神経細胞の「静止」「興奮」の様式を、

 ――脳の神経模様

 と呼ぶことにする、ということを――きのうの『道草日記』で述べました。

 僕のいう「生物社会科学」で重要な役割を果たすのは、この“脳の神経模様”である、と――

 

 実際には、ある時刻における“脳の神経模様”がわかっても、あまり意味はないと考えられます――大切なのは、ある時刻における“脳の神経模様”ではなく、ある時刻からある時刻まで(ある時間内)の“脳の神経模様”の変化です。

 神経細胞は、ふだんは――つまり、大部分の時間は――「静止」の状態をとります――「興奮」の状態をとるのは、ごく僅かな時間(数ミリ秒間)だけです。

 よって、実際的には、神経細胞について、その「興奮」の状態が、単位時間当たり、どれくらいの頻度で生じているのかが、注目されます――つまり、真に大切なのは、「静止」の神経細胞に発生する「興奮」の頻度である、ということです。

 が、そのような神経生物学的な話は、ここでは措きます。

 要するに、

 ――“生物社会科学”で重要な役割を果たすのは“脳の神経模様”――とりわけ、“脳の神経模様”の推移――である。

 ということをご確認いただければ、それでよいのです。

 

 “生物社会科学”で最終的に議論されてほしいと僕が思っていることは、“脳の神経模様”どうしの相互作用です。

 Aという“脳の神経模様”とBという“脳の神経模様”とが互いに作用を及ぼし合った結果、AやBは、その後、どのような推移を遂げていくのか――

 もちろん、その「相互作用」というのは人の発言や行動などが介する間接的な作用であるに違いありません――Aの脳や神経細胞がBの脳や神経細胞に直接的に作用を及ぼすということは、それぞれの脳や神経細胞が頭蓋骨で明らかに隔てられているので、ちょっと考えられませんよね。

 ここで前提となる観点は、対象の本質は“脳の神経模様”それ自体にあって、人の発言や行動にはない、ということです――人の発言や行動は、“脳の神経模様”の外形的な発露としてあるに過ぎない、ということです。

 この人の発言や行動を従来の社会科学は対象の本質とみなしてきました――もちろん、そうしなければ、学問として成り立ちえなかったからです。

 が、人の発言や行動というのは、どうしても曖昧模糊としていますから、本来、学問の対象とはなりにくいのです。

 “脳の神経模様”がつぶさにわかれば、わざわざ人の発言や行動のような心もとない事象を学問の対象に据える意義は薄れるはずです。