人文科学の本質は、
――過程の「なぜ?」
にある、ということを――6日前の『道草日記』で述べました。
この“過程の「なぜ?」”というのは――
要は人の気持ちや考えのことです。
――なぜ、そんな気持ちに相手がなるのかを思え。
とか、
――なぜ、そのようにお考えになるのですか。
とかいった意味での「なぜ?」です。
よって、
――人文科学の本質は、“過程の「なぜ?」”にある。
というのは、
――人文科学の本質は、人の気持ちや考えにある。
というのと同じです。
この場合の、
――人
は、ほぼ必ずといってよいほどに、
――ひとりの人
です――堅苦しくいうなら、
――個人
です。
よって、
――何らかの著作を人文科学的に読んでいく。
ということは、
――著者個人の気持ちや考えを知ろうとする。
ということになります。
――その著作を通し、自分の心の中で、著者との対話を――仮想的な対話を――行っていく。
ということです。
この「対話」は、実質的には、
――おしゃべり
と同じです。
例えば、職場の休憩室やカフェ・レストラン・居酒屋などでの無駄話と同じです。
ただし、人文科学的であるには、対話が一対一の必要があります。
数人で座談を囲むような状況での“おしゃべり”は、人文科学的ではありません――対話にならないからです。
対話にならない座談というのは、たいていは、社会科学的であり、ときに自然科学的でさえ、あります。
僕が知っている人文科学者の多くは、対話の名手です。
一方、自然科学者の多くは、座談の名手です。
あいにく、社会科学者の知人はほとんどいないのですが――
たぶん、座談の名手が多いに違いありません。