――人に強い。
とか、
――人に強くなる。
とかいったいい方が気になっている、ということを――
きのうの『道草日記』で述べました。
この「人に強い」といういい方を僕が強く意識するようになったのは、2013年に作家の佐藤優さんがご著書『人に強くなる極意』を出版されてからです。
それ以前から「人に強い」という語句は僕の頭の片隅にあって、自分なりに、
――「人に強い」とは、どういうことか。
を考えていましたが、正面から考えるようになったのは、2013年以降――佐藤優さんのご著書のタイトルを目にしてから――でした。
きのうの『道草日記』でも述べましたが――
「人に強い」とはどういうことか――
それは、あまり深く考えなければ、何となくわかります――少なくとも、わかった気にはなる――
が、
(待てよ?)
と思い直し、ひとたび深く考え始めてしまうと、
(あれ?)
と思い悩み始めるのです。
もう少し具体的にいいましょう。
佐藤優さんの『人に強くなる極意』の目次をお示しします。
第1章 怒らない
第2章 びびらない
第3章 飾らない
第4章 侮らない
第5章 断らない
第6章 お金に振り回されない
第7章 あきらめない
第8章 先送りしない
いかがでしょう。
(これら8つの「~ない」が実践できる人は、たしかに人には強いだろう)
と、すぐに思えませんか――
少なくとも、これらの結論の妥当性は、とくに佐藤優さんのご著書を読まなくても、だいたいは、わかる――
が――
本当に大切なことは、それら結論ではないのです。
これは、人文科学の――あるいは、人文学的なテーマの――最大の特徴だと、僕は思っているのですが――
結論に本質はありません――結論に至る過程にこそ、人文科学の本質は宿っている――
――「人に強い」とは、どういうことか。
を考える際も同じです――その結論には本質がなく、その過程にこそ、本質がある――
どういう人が「人に強い人」なのか、どういう状態が「人に強い状態」なのか――その答えだけなら、そんなに深く考えなくても、何となくわかるものです。
が、大切なのは、答えではない――
――そういう人が「人に強い」と、なぜ、いえるのか。
あるいは、
――そういう状態が「人に強い」と、なぜ、いえるのか。
です。
この「なぜ、いえるのか」を、今、
――過程の「なぜ?」
と呼びましょう。
人文科学の本質は、この“過程の「なぜ?」”にこそあると、僕は考えています。