――若いうちは芸術よりも学問のほうが大切だ。
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
裏を返せば、
――若くなくなったら学問よりも芸術のほうが大切である。
ということです。
学問には「理解しようとあらゆる努力を払う者には必ず理解される」という性質があり――
芸術には「そもそも理解できる者にしか決して理解されえない」という性質がある、と――
きのうの『道草日記』で述べました。
歳をとってくると、
――理解したいものを理解するべく、あらゆる努力を払う時間
は、惜しくなってきます。
――とりあえず理解できるものだけを積極的に理解していく姿勢
というのが、否が応でも、必要になってくるのです。
そのような観点から、僕は、
――芸術の区分
には、あまり意味がないと思っています。
少なくとも、
――学問の区分
ほどには、意味がない――
学問を「人文科学・社会科学・自然科学」あるいは「哲学・神学・医学・法学」に分ける考え方について、おとといまでの『道草日記』で繰り返し触れましたが――
同じような考え方で芸術を区分することには、あまり意味がない――
例えば、芸術を、
言語芸術(文芸)
造形芸術(美術)
音響芸術(音楽)
などの分ける考え方があります。
あるいは、
空間芸術
時間芸術
などに分ける考え方や、
視覚芸術
聴覚芸術
などに分ける考え方もあります。
そのようにして芸術を分けることで、例えば、いま自分が取り組んでいる芸術の活動の位置づけを把握し、その活動の方向性を慎重に調える、というような態度は、その活動の内容を深めたり高めたりする上では、それほど有効ではありません。
芸術には、
――わかる人に、わかればよい。
あるいは、
――いまの自分が、わかればよい。
という前提があります。
全体をかえりみず、周囲にかまわず、たとえ「木をみて森をみず」であっても、あえて突っ走ったり突っ込んだりしなければ何も始まらないようなところが、芸術にはあります。
その証左が、
――総合芸術
という概念の確立でしょう。
この概念は、通常、「言語芸術・造形芸術・音響芸術」の区分に対して用いられ、例えば、映画や演劇などを指しますが、他の区分にも十分に当てはまります――「空間芸術・時間芸術」に対して「総合芸術」――「視覚芸術・聴覚芸術」に対して「総合芸術」――
このような「総合芸術」という概念が確立されている現状をみれば――
“芸術の区分”に“学問の区分”のような意義を見出すことは、困難です。