マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

若いうちは芸術よりも学問で

 学問には、

 ――理解しようとあらゆる努力を払う者には必ず理解される。

 という性質があるのに対し――

 芸術には、

 ――そもそも理解できる者にしか決して理解されえない。

 という性質があると考えられています。

 

 この「理解しようとあらゆる努力を払う者には必ず理解される」という性質が、学問を堅苦しい営みにし――

 この「そもそも理解できる者にしか決して理解されえない」という性質が、芸術を風通しのよい営みにしている――

 ということは、たぶん、いってよいでしょう。

 

 その堅苦しさが学者を謙虚にし、その風通しのよさが芸術家を傲慢にするようなところも――

 たぶん、あると思います。

 

 どちらが良いとか悪いとか、どちらが優れているとか劣っているとか、どちらが高尚であるとか低俗であるとか――

 そういった話ではありません。

 

 学問も芸術も――

 どちらも知っているほうが、よいに決まっているし――

 どちらにも関わっているほうが、たぶん、人生は豊かになります。

 

 が――

 より努力が必要なのは学問のほうであり――

 より才能が必要なのは芸術のほうである――

 ということは、ほぼ間違いないでしょう。

 

 才能は生まれた時点で、その有無が決まっています。

 が、努力については、それに費やす時間を要します。

 

 もちろん、

 ――努力を続けられるということも才能の1つだ。

 とか、

 ――才能を磨き続けていくという努力が本質だ。

 とかいった議論はありますが――

 そういった話は、今は措いておくとして――

 

 とにかく、努力には時間がかかる――

 そういうことが、ひとまずは、いえるでしょう。

 

 よって――

 僕は思うのです――

 (若いうちは芸術よりも学問であろう)

 と――

 

 なぜならば――

 若いうちは時間がたくさんある――そのたくさんの時間を、まずは学問に費やすのがよい――芸術に費やすのは、ほどほどでよい、と――

 

 異論は多いに違いありません。

 

 が――

 今の僕は、とりあえず、そう思っています。

 

 そう思っているからこそ――

 ここ数週間の『道草日記』で、僕は「人文科学・社会科学・自然科学」のことに触れ、かつ「哲学・神学・医学・法学」のことにも触れました。

 

 以上の文脈において――

 少なくとも若いうちは、芸術よりも学問のほうが大切だと、僕は思っています。