マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

“国家百年の計”の教育で必ず念頭に置くこと

 ――国民教育

 や、

 ――学術教育

 と、

 ――“国家百年の計”の教育

 とでは性質が異なる――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ――国民教育

 や、

 ――学術教育

 は、いわば、

 ――国家の福利厚生

 のようなものといってよいのですが――

 

 ――“国家百年の計”の教育

 は、

 ――国家の安全保障

 そのものです。

 

 ――国民教育

 や、

 ――学術教育

 を誤っても――

 国家の民度や利益が損なわれるくらいで済みますが――

 

 ――“国家百年の計”の教育

 を誤ったら――

 国家の存亡が問われます。

 

 国家の存亡が問われるような事態では、国民の生命や財産の多くが失われかねません。

 ほとんどの国民にとって、それは切迫の事態です。

 

 専制主義の国家では――

 国家の首脳部を占める人材は、君主や君主の一族、および一部の支配者階層から充てられます。

 

 よって、

 ――国民教育

 や、

 ――学術教育

 と、

 ――“国家百年の計”の教育

 とは、全くといってよいほどに、関係がありません。

 

 が――

 民主主義の国家では――

 国家の首脳部を占める人材は、国民のあらゆる階層から広く輩出をされることが前提となっていますから――

 

 ――“国家百年の計”の教育

 の土台には、

 ――国民教育

 がある、といってよく――

 また、

 ――学術教育

 が、

 ――“国家百年の計”の教育

 の側面を支えている、といってもよいでしょう。

 

 そのような意味で――

 少なくとも民主主義の国家では、

 ――“国家百年の計”の教育

 と、

 ――国民教育

 や、

 ――学術教育

 とは、ある程度は繋がっています。

 

 とはいえ――

 民主主義の国家といえども、 

 ――国民教育

 や、

 ――学術教育

 に邁進をしてさえいれば、

 ――“国家百年の計”の教育

 が自然と確立をされていく、というわけではありません。

 

 ――“国家百年の計”の教育

 は、

 ――国家百年の計

 を十分に意識した上で――

 例えば、

 ――国家の存亡

 が問われるような深刻な局面において、

 ――どのような人々に国家の舵取りを任せるのがよいのか。

 という問いへの答えを示すことでもあります。

 

 ――国家の安全保障

 を念頭に置かずに、ただ何となく、

 ――“国家百年の計”の教育

 を考えたところで、何ら意味はないのです。