――国家百年の計
の「百年」は、
――人の寿命
である――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
そして――
そもそも、
――国家百年の計
というのは、
――教育のこと
に他ならず、
――自分の生涯が終わる頃のことを考えるくらいなら、目の前の教育をきちんと行うのがよい。
という主旨であることも、きのうの『道草日記』で述べました。
要するに、
――100年後、200年後、300年後に、どんな問題が発生をしても適切に対応ができるように、今から人材の育成の仕組みを整えておくこと
それが、
――国家百年の計
なのです。
決して、国家の百年先の状況を見通すことが、
――国家百年の計
ではないのですね。
よって――
理屈で考えれば、
――“国家百年の計”の教育がきちんと実践をされてさえいれば、100年先であっても300年先であっても1000年先であっても、国家の隆盛は衰えないはずである。
ということになります。
徳川幕府が“国家百年の計”の教育を概して確実に行っていたことは、ほぼ疑いようがありません。
それゆえに、政権が約260年の長きにわたって続いたのです。
一方、明治政府は“国家百年の計”の教育には明らかに失敗をしたといってよいでしょう。
それゆえに、政権は「太平洋戦争」の苦汁をなめ、約80年で潰えました。
――日本の近代史は大正期から昭和期にかけて急におかしくなった。
とは、しばしば指摘をされるところです。
その象徴として挙げられるのが、いわゆる、
――統帥権干犯問題
です。
――統帥権干犯問題
については、2017年9月1日の『道草日記』で軽く触れました。
この問題は――
簡単にいってしまうと――
明治政府が敷いた制度の欠陥に由来をしています。
政治の一部である外交の、そのまた一部である軍事の都合が、政治の全体の都合に優先をされうる制度になっていたのですね。
――統帥権
というのは、明治政府の最高権力者である天皇が握っているとされた権限のことで――
軍事に関する明治政府の最終決定権を指します。
が――
この統帥権を天皇が実際に用いることは稀でした――天皇は、統帥権に限らず、外交・内政の全般に関わる権限の全てを、少なくとも実質的には、政権の首脳部に委ねていたのです。
よって――
政権の首脳部の長――つまり、政権の首班――が統帥権を握る制度になっていれば、何の問題もなかったのですが――
そのような制度になっていなかったのですね。
そして――
その制度の欠陥が広く世間に知られて警戒をされるということも、ありませんでした。
こうして――
政治の一部にすぎない外交の、そのまた一部に過ぎない軍事に与っている者たちが、政治の全体をみることなく、杜撰な判断を下し、勝手な行動を起こしたことで――
明治政府は「太平洋戦争」の苦汁をなめ、滅びるに至ったのです。
もちろん、ここでいう「明治政府」とは――きのうの『道草日記』で述べた通り――明治期の政権を指すだけでなく、大正期や昭和前期の政権の全てを指す言葉です。
……
……
繰り返します。
――統帥権干犯問題
が、なぜ発生をしたのか――
……
……
それは――
明治政府が“国家百年の計”の教育を誤ったからです。
では――
なぜ、明治政府が10~30年で潰えることなく、約80年も続いたのか――
それは――
徳川幕府が“国家百年の計”の教育を誤らなかったからです。
明治政府の創成期を支え、引っ張った政治家や軍人たちは、明治政府による“国家百年の計”の教育を受けていたのではなく、徳川幕府による“国家百年の計”の教育を受けていたことを――
僕らは常に弁えておく必要があります。