17世紀序盤の日本列島に生じた徳川幕府は――
キリスト教の禁止と鎖国の徹底に踏み切ったことで、その後、日本列島の人々に300年近い泰平の世をもたらしました。
これは、徳川幕府が、
――国家百年の計
を誤らなかったから――
と、いえるでしょう。
一方――
19世紀終盤に生じた明治政府は、
――国家百年の計
を誤り――
20世紀中盤で日本列島の人々に「太平洋戦争」という名の挫折をもたらします。
この挫折の責任は、もちろん、
――明治政府が第一に負うべきである。
と、いえますが――
徳川幕府に全く責任がなかったかといえば――
そうではありません。
明治政府が「太平洋戦争」の苦汁をなめるに至ったのは、徳川幕府が300年先のことを考えなかったがゆえである――
と糺すこともできるのです。
ここでいう「明治政府」とは、日本列島における明治期の政権だけを指すのではなく――
その後に続く大正期や昭和前期の政権も含めた、いわゆる、
――戦前
の政権の全てを指します。
とはいえ――
――徳川幕府が300年先のことを考えなかったのは人情としては自然である。
ということは――
きのうの『道草日記』で述べた通りです。
人は、100年先のことを考えるのが精一杯であり、300年先のことを考えるのは無理なのです。
つまり、
――国家百年の計
というのは、
――人の知性の限界
の具体例である――
ということです。
少なくとも――
17世紀序盤の徳川幕府が、20世紀中盤の「太平洋戦争」の苦汁を避けようと思ったなら、
――国家三百年の計
が必要でしたが――
それは、
――人の知性の限界を超えていた。
ということです。
ここで――
1つ疑問に思えることに気づきます。
それは、
――「国家百年の計」の「百年」は、なぜ「百年」なのか。
という疑問です。
つまり――
なぜ100年で区切られたのか――なぜ200年や300年では区切られなかったのか――
ということですね。
……
……
その答えは、
――国家百年の計
の出自を探ることでみえてきます。
――国家百年の計
は、中国・春秋時代の政治家、
――管(かん)仲(ちゅう)
の見解に端を発していると考えられます。
管仲は、紀元前の中国大陸の一部――黄河流域――に興った斉という国の宰相を務めた政治家で、自国を隆盛に導き、自国に黄河流域の覇権をもたらした、と――
考えられています。
その管仲が、君主から、
――国の隆盛を保つには、どうすればよいか。
と下問をされて答えたとされるのが――
次の見解です
――1年後のことを考えても種を埋めるには及ばず、10年後のことを考えても木を植えるには及ばず、生涯を終える頃のことを考えても人を育てるには及びません。
この「生涯を終える頃」というのは、当時の人々の寿命を考えると、おそらくは「30~70年後」の意味であったはずですが――
近代以降、人々の寿命が延びたことで、「100年後」に読み替えられ、
――100年後のことを考えても人を育てるには及ばない。
になったと考えられます。
つまり、
――国家百年の計
というのは、元来は、
――100年後のことをいくら考えても仕方がないから、とにかく教育をしっかりと行うのがよい。
という意味であったのですね。
――国家百年の計
の中身は――
実は何一つ存在をしなかったのです。
もちろん、
――国家三百年の計
も同様です。