――統帥権干犯問題
が日本史の表舞台に飛び出してきた昭和5年頃、海軍の上層部は明治政府の下で育った世代で占められていた――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
実は――
これより一世代分ほど前――明治後期の頃――にも、統帥権干犯問題は厳然と存在をしていました。
正確には、
――統帥権干犯問題の萌芽である制度上の“いい加減さ”
が存在をしていたのです。
が――
この頃は、その“いい加減さ”に多くの人々が気づいていて――
それが深刻な問題となりうる危険性に十分に意識的であったようです。
よって――
その“いい加減さ”が、実際に深刻な問題となることがないように、政権も軍も阿吽の呼吸で胸の内を照らし合わせ、巧く対処をしていたそうです。
具体的には、
――統帥権は、形式的には内閣から独立をしているようにみえるが、軍事が政治の一部であることは自明であるので、実際には、内閣に従属をしているものとみなして対処をしていくのが賢明である。
との見解が、政権の首脳部と陸・海軍の上層部との間で、何となく共有をされていた――
ということです。
明治後期の頃までは、徳川幕府の下で生まれた世代が政権や軍の要職を占めていました。
つまり――
明治政府の中枢に、徳川幕府の“国家百年の計”の教育の残滓が、まだ十分に残っていて、
――軍事は政治の一部に過ぎない。
との前提が、ごく自然に共有をされていたのですね。
昭和前期に入って――
徳川幕府の“国家百年の計”の教育の残滓が、明瞭に薄れだします。
明治政府による“中央集権的な束縛”の教育が新奇の奔流となって、その残滓を押し流し始めたのです。
つまり――
統帥権干犯問題が昭和前期になって日本史の表舞台に飛び出したのは、決して偶然ではない――
ということになります。