――明治政府は発足当初から異様であった。
ということを、おとといの『道草日記』から繰り返し述べています。
この、
――異様
を避けるには、どうすれば良かったか――
……
……
結果論は明らかです。
――ひとまず徳川慶喜に政権を任せればよかった。
です。
大政奉還の頃までには、
――徳川幕府
という政体――政治の体制――では、もはや西欧列強の外交圧力に抗えないことは、ほぼ自明であり――
そのことは、最後の将軍・徳川慶喜も、よくわかっていました。
徳川慶喜が目指した政体は――
おそらく、後の明治政府が目指すことになる政体と、ほぼ同じです。
他に選択肢はありませんでした――少なくとも、現実的な選択肢はありませんでした。
徳川慶喜は、最終的には地方分権的な徳川幕府の政体を完全に取り壊し、後の明治政府が目指す中央集権的な政体を設えて――
その政体における、
――宰相格の有力な廷臣
として、自身、引き続き政権を担うつもりでいたと考えられます。
徳川慶喜だけでなく、徳川幕府の首脳陣、あるいは、“維新の志士”たちの一部も――
そのような政体の構想を抱いていたでしょう。
それは、決して時代錯誤の空想ではありませんでした。
“維新の志士”のなかで最も有名と思われる、あの坂本龍馬でさえ――
徳川慶喜が政権の首班となる政体を漠然と思い描いていたと、いわれるくらいです。
もし、徳川慶喜が明治政府のような中央集権的な政体において、“宰相格の有力な廷臣”として政権を担っていれば――
後世、あの統帥権干犯問題が持ち上がることはなかったでしょう。
徳川慶喜は、軍事行動の実務経験こそ不足をしていましたが、
――将軍として軍事を司りつつ、政治全般に当たる。
という武家政権の伝統を受け継いだ人物です。
軍事の裁量権を握り続けることの重要性は、理の当然であったでしょう。
徳川幕府が崩れた後に――
軍事を司りつつ、政治全般に当たる人物が、一人でも登場をしていれば――
後世、
――統帥権は内閣から独立をしている!
などと奇怪な主張がされることもありえなかったに違いないのです。