マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

徳川慶喜に政権を任せていたら――再考

 ――明治政府の異様

 について述べています。

 

 この“異様”を避けるには、

 ――ひとまず徳川慶喜に政権を任せればよかった。

 ということを、1月2日の『道草日記』で述べました。

 

 実際には――

 それは不可能であったろうことを、翌日の『道草日記』で述べました。

 

 以上を踏まえた上で――

 あえて、

 ――大政奉還の頃に、ひとまず徳川慶喜に政権を任せていたら、どうなっていたか。

 ということを、もう1度、考えてみたいと思います。

 

 1月2日の『道草日記』では、

 ――軍事を含む政治全般を担う“宰相格の有力な廷臣”が誕生していたのではないか。

 ということを述べました。

 

 ――徳川慶喜が、徳川幕府の無くなった後の政体――政治の体制――に引き続き参画をしていたならば、かつて将軍職に就いていた自身の経験を踏まえ、政治全般を担いつつも軍事の裁量権は手元に残す努力をしていたことであろう。

 と――

 

 ただし――

 

 1月3日の『道草日記』で述べたように――

 徳川慶喜には、少なくとも同時代人からの人望が十分ではなかったために――

 その政権は、すぐに倒れていたと考えられます。

 

 政権が倒れるだけでなく、政体それ自体が作り直しになっていた可能性も、あったでしょう。

 

 とはいえ――

 

 後世の統帥権干犯問題のことを考えると――

 

(そのほうが、まだマシだった)

 と――

 僕は感じます。

 

 徳川慶喜の政権や政体がなくなっても――

 その後、伊藤博文のような人物が出てきて、後継の座に収まっていたはずです。

 

 そして――

 その人物は、徳川慶喜にならい――つまり、政治・外交・軍事の常識に照らし――軍事の裁量権をしっかりと握った“宰相格の有力な廷臣”になっていたことでしょう。

 

 ――明治政府の異様

 は、表面的には、

 ――クーデターによって徳川慶喜をきたる政権・政体から不自然に締め出したこと

 に始まっているといえます。

 

 が――

 深層的には、

 ――政治・外交と軍事とを無意識に分け隔ててしまったこと

 に始まっているといえます。

 

 軍事は、外交の一部であり、外交は政治の一部であるにも関わらず――

 なぜか政治・外交と軍事とを分け隔ててしまった――おそらくは、十分な吟味をしないままに、“維新の志士たち”の間で、何となく分担をしてしまった――

 

 大政奉還の頃――

 徳川慶喜を不自然に締め出したりしなければ、どうなっていたか――

 

 ……

 

 ……

 

 おそらく――

 徳川慶喜の政権は、すぐに瓦解をしていました。

 

 が――

 後世の統帥権干犯問題を生み出した、

 ――軍事の裁量権の独立

 は生じなかった可能性が高まっていたであろう、と――

 僕は考えています。