――徳川慶喜のことを、“近代日本の最初の政治家”ないし“文科・理科双方に通じた教養人”とみるなら、鳥羽・伏見の戦いの前後の動向も、それほど不可解ではなくなってくる。
ということを――
きのうの『道草日記』で述べました。
このように述べると――
徳川慶喜のことを快く思っていない向きから、
――あの臆病者の肩をもつのか!
と叱声を浴びそうです。
実際に――
僕は、どちらかといえば、徳川慶喜の肩をもっているほうだと思いますが――
それでも――
徳川慶喜のことを「臆病者!」と詰りたくなる人たちの気持ちも、わからないではないのです。
やはり――
鳥羽・伏見の戦いの後、配下の軍勢を大坂に残して、自分の周囲の者たちだけを連れて軍艦で江戸に向かったというのは、
(人の上に立つリーダーとして、どうなのか)
と思います。
いくら内戦を防ぎ、西欧列強の侵略を封じるためであったとしても、
(もう少し違ったやり方もなくはなかったろう)
と思います。
……
……
いったいぜんたい――
徳川慶喜という人は――
鳥羽・伏見の戦いの前後で何を考えていたのか――
……
……
このことを深く疑問に思う人たちは――
決して少なくないでしょう。
そんな人たちの一人に、
――伊藤博文
がいます。
いわずと知れた初代・内閣総理大臣です。
伊藤博文は、明治30年代、ある外交儀礼の晩餐会で、徳川慶喜と同席をしたことがあるそうです。
宴もたけなわとなって海外の招待客が帰っていった後――
伊藤博文は、まだ居残っていた徳川慶喜に向って、唐突に言葉を発したといいます。
「はなはだ不躾な質問で、まことに失礼ではございますが、ずっと前から不思議に思っておりましたことですので、機会があれば、ぜひお聞きをしたいと思っておりましたものですから、お訊ねをいたします。大政奉還の後(鳥羽・伏見の戦いの前後に)ひたすら朝廷に恭順の態度に出られたのは、どのようなわけですか」
徳川慶喜の答えは、伊藤博文の予想を超えたものであったようです。
「ずいぶんと改まったご質問ですが、実は、これといってお話しをすべきことはないのです。私の生まれた水戸(徳川)家は、先祖代々、朝廷を篤く敬って参りました。そのことは父からも固く申し付けられておりました。つまり、ただ親の遺命に従ったまででございます。まことに知恵のないやり方で、恥ずかしいというほかはございません」
この頃の徳川慶喜は、還暦を過ぎていたと考えられます。
この返答に――
伊藤博文は感服をしたそうです。
――あのような質問を私たちなどが受ければ、後知恵で色々と理屈を付け足すところだが、そのような気配が慶喜公には微塵もなかった。
と――
ちなみに――
……
……
――まことに知恵のないやり方で、恥ずかしいというほかはない。
というのは、半分は嘘で半分は本当であろう、と――
僕は感じます。
おそらくは、
――どのように知恵を絞るかを必死に考えた結果、「あえて知恵を絞らない」という知恵に辿りついた。
という経緯ではなかったでしょうか。
そして――
その後30年ほどを経て、
――「歴史に汚名を残して恥ずかしい思いをしている」と認めることでしか、自分の役割は全うできない。
という洞察を得たのではなかったか、と――
……
……
――「あえて知恵を絞らない」という知恵
は、30歳の頃の徳川慶喜の達観でしょう。
――「恥ずかしい思いをしている」と認める
は、還暦の頃の徳川慶喜の諦観でしょう。
(見事だ)
と――
僕は思います。