マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

明治政府が政権の所在を明確にできなかった理由

 ――明治政府は政権の所在の明確化に失敗をした。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 なぜ明治政府は政権の所在を明確にできなかったのでしょうか。

 

 ……

 

 ……

 

 それは――

 明治政府が発足当初から集団指導体制であったからと考えられます。

 

 明治政府の場合――

 政権を手にした絶対的な指導者というのが見当たらないのです。

 

 例えば、徳川幕府の場合は、政権の発足当初に、

 ――徳川家康

 という絶対的な指導者がいました。

 徳川家康は名実ともに政権を一人で担っていました。

 

 が――

 明治政府には、そういう指導者がいなかったのです。

 

 形式的には、明治天皇が政権を担っていました。

 

 が――

 明治政府が発足をしたときに、明治天皇は10代半ばでした。

 

 政権を実力で掴みとるには、少し早すぎる年齢でした。

 

 実際のところ――

 明治天皇が高い指導性を発揮して徳川幕府から政権を奪いとったわけではありません。

 

 徳川幕府のほうから、いわゆる、

 ――大政奉還(「政権を謹んでお返し申し上げる」の意)

 の申し出があり――

 明治天皇の側近らが、思わぬことに戸惑った挙句、

 ――ひとまず「大政奉還」の申し出を受ける形で政権を引きとった。

 というのが真相であったと考えられています。

 

 その後――

 薩摩藩長州藩の下級武士らと朝廷の公家らが急ぎ話し合って、将軍・徳川慶喜を筆頭とする徳川幕府の関係者をほぼ全て締め出した上で、新たに政権を担う意思を示しました。

 

 このときから、すでに――

 明治政府は集団指導体制なのです。

 

 図抜けた指導者――政権の統括者――がいなかったのです。

 

 よく、

 ――維新の三傑

 といいますね。

 

 ――西郷隆盛

 ――大久保利通

 ――木戸孝允

 の3人です。

 

 これらに、

 ――岩倉具視

 ――大村益次郎

 ――江藤新平

 ら7人を加えて、

 ――維新の十傑

 ということもありますが――

 これら10人は、明治16年に病死をした岩倉具視を最後に、全員が、この世を早々に去っているのです。

 

 彼らの後を引き継いだが、

 ――伊藤博文

 ――山県有朋

 ――井上馨

 といった人たちで――

 明治政府の政体は事実上、彼ら3人を中心に整えられていきました。

 

 ごく簡単にいってしまうと――

 徳川幕府にとっての徳川家康に当たる人物が、明治政府には10人以上もいる、ということです。

 

 政権の発足当初から10人以上の人物が入れ代わり立ち代わり政権に関わっていたわけですから――

 政権の所在が曖昧になるのは、当然のなりゆきといえました。