マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

明治政府は発足前から集団指導体制であった

 ――明治政府は発足当初から集団指導体制であったので、政権の所在の明確化に失敗をした。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 裏を返せば――

 発足当初の明治政府が集団指導体制でなければ――つまり、誰か絶対的な指導者が1人いて、その人の監督の下に明治政府の体制が整えられていれば――

 明治政府が政権の所在の明確化に失敗をすることはなかった――

 ということになります。

 

 が――

 不幸にして、そのような指導者が、創成期の明治政府には見当たりませんでした。

 

 明治政府が徳川幕府の本拠地であった江戸に軍を差し向けたときに――

 その軍の指揮権を握っていた人物が、本来ならば、それ以後の明治政府の絶対的な指導者になるのが自然でした。

 

 が――

 その指揮権を握っていた人物が誰であったかという話になると、ややこしくなるのです。

 

 その指揮権を実質的に握っていた人物は西郷隆盛といってよいのですが――

 それとは別に、その指揮権を形式的に握っていた人物がいたものですね。

 

 皇族の有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁(たるひと)親王です。

 

 まだ徳川幕府が主導権を握っていた頃から徳川幕府に抗う姿勢を鮮明にしたり、明治天皇の信任を得て福岡の地方行政に与ったり、明治天皇の名代として外国を訪ねたりするなど――

 前後の経歴をみると、決して、

 ――お飾り

 の最高司令官ではなかったようです。

 

 が――

 死地を何度も潜り抜けてきた西郷隆盛のような、いわゆる“維新の志士”たちと比べてしまうと――

 どうしても見劣りのする人物でした。

 

 おそらく、

 ――お飾り

 ではなかったのですが――

 “維新の志士”たちの多くは、

 ――お飾り

 とみなしていた可能性があります。

 

 よって――

 有栖川宮熾仁親王が、創成期の明治政府において、絶対的な指導者となる見込みは、ほぼゼロでした。

 

 もし、西郷隆盛が、江戸攻略の軍の最高司令官に、実質的にだけでなく、形式的にも任じられていたら――

 その後の明治政府は西郷隆盛を中心に運営をされたことでしょう。

 

 何しろ、西郷隆盛は“維新の志士”たちから絶大な人望がありました。

 西郷隆盛であれば、明治天皇の権威の下、絶対的な指導者として、明治政府の体制構築に邁進をすることが許されたはずです。

 

 が――

 そのような野心が、西郷隆盛本人になかったようです。

 

 そもそも、西郷隆盛には政治への関心がなく――

 また、政治家としての手腕についても、同時代人からは疑念を持たれていたようです。

 

 人望は絶大であったものの、政権の首班として政治に深く関われるような人物ではなかったのですね。

 その西郷隆盛の弱点を巧く補っていたのが、例えば、大久保利通であり、木戸孝允であり、岩倉具視であったと考えられます。

 

 つまり――

 明治政府は、正式に発足をする前の江戸攻略の時点で、すでに――

 集団指導体制が深く根を張っていたことになります。