――鎌倉末期に即位をした後醍醐天皇は、南北朝期が始まる前に早々と足利尊氏を将軍に任じ、彼に幕府を開かせていれば、後世、明治天皇と同じくらいに幅広く日本列島の人々から敬愛をされる天皇になっていたかもしれない。
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
もちろん――
話は、逆でして――
――明治天皇は、後醍醐天皇の失敗から学んだことを活かし、日本列島の人々の上に巧みに君臨をした。
と考えられます。
より厳密には、
――明治政府は、建武政権の失敗から学んだことを活かし、日本列島に生じた近代国家を巧みに治めた。
です。
きのうの『道草日記』で述べたように――
建武政権の失敗は――
足利尊氏ら鎌倉末期の有力な武士らを通して――
武力を間接的にしか握らなかった――
よって――
肝心の足利尊氏が政権の中枢から離れたことを機に――
建武政権は、わずか3年で潰えました。
明治政府は同じ失敗を繰り返しませんでした。
明治政府の軍隊は、すべて――
明治天皇が親率をする直轄軍とされました。
――建武政権が長続きをするには、後醍醐天皇が足利尊氏の役割を兼ねる必要があった。
と、明治政府の首脳部は考えたのではないでしょうか。
つまり、
――明治政府が長続きをするには、明治天皇が“足利尊氏”の役割を兼ねる必要がある。
ということです。
では――
明治政府にとっての“足利尊氏”は誰であったのでしょうか。
……
……
人によっては――
それは、
――西郷隆盛
であった、というでしょう。
そうかもしれません。
が――
僕は、足利尊氏が他の有力な武士らに与えた影響力を考えると――
西郷隆盛では、少し力不足のように感じます。
――西郷隆盛
については――
12月30日の『道草日記』でやや詳しく触れました。
たしかに――
西郷隆盛は、いわゆる“維新の志士”たちからは絶大な人望を寄せられていました。
実際のところ――
西郷隆盛は、明治政府が成立をして間もなく、首脳部の他のメンバーらと袂を分かち、下野をしています。
そして――
後年、いわゆる西南戦争を起こし――
明治政府の転覆を試みるのです。
その動きは――
建武政権に対する足利尊氏の動きと重なるところがないわけではありません。
が――
西郷隆盛が強い影響力を及ぼしたのは、いわゆる“維新の志士”たちのみであり――
江戸末期の有力な武士ら――例えば、大名級・家老級の武士ら――に与えた影響力は限定的であったと考えられます。
では――
明治政府にとっての“足利尊氏”は誰であったか――
……
……
僕は、
(徳川慶喜であろう)
と思います。
正確には、
あるいは、
――大政奉還を申し出ることで徳川幕府の政体――政治の体制――に終止符を打った徳川慶喜
です。
――徳川慶喜
については――
12月20日以降、『道草日記』で繰り返し述べてきました。
明治政府が徳川幕府から政権を奪えたのは――
徳川慶喜が本気で徳川幕府を――正確には、徳川幕府の政体を――見限ったからです。
明治政府が円滑に政権を手にすることはありえなかったでしょう。
その意味で――
明治政府にとっての“足利尊氏”は、
――西郷隆盛
などではなく、
――徳川慶喜
なのです。
明治政府の首脳部が、徳川慶喜の恭順を速やかに受け入れ、武力を奪いとった上で静岡に隠棲をさせたのは――
建武政権による“足利尊氏”への仕打ちの不味さを、よくわかっていたからである――
と考えられます。
そのことは――
明治政府の首脳部よりも――
むしろ徳川慶喜自身のほうが強く実感をしていたことでしょう。
――ここで自分が歯向かえば、南北朝期のような争乱が始まってしまう。
ほぼ間違いなく、西欧列強の軍隊が日本列島に駐留をするような事態になりました。
そうなれば――
徳川幕府自体は滅亡を免れ、例えば、関東の地方政権として、どうにか存続はしえたかもしれませんが――
日本列島の大部分は、西欧列強の植民地となったでしょう――武力をもたない天皇家は西欧列強によって断絶を強いられていたかもしれない――
そこまで考え――
徳川慶喜は、明治政府に対し、ひたすら恭順の意を示し続けたのではないか――
そう――
僕は思います。