いわゆる、
――国家百年の計
の本質である教育の施策について、
――明治政府は誤ったが、徳川幕府は誤らなかった。
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
こう述べると――
種々の異論が出てくるでしょう。
もちろん、
――明治政府は誤ったが、徳川幕府は誤らなかった。
というのは極論であり、結果論であり――あくまでも、総体的な傾向を述べたものにすぎないのであって――
いくらでも例外は挙げられます。
とはいえ――
日本列島の人々が、20世紀中盤に、
――太平洋戦争
という苦渋を舐めるに至っていて――
その時点から80年ほど前に明治政府が政権を担い、そこから更に260年ほど前に徳川幕府が政権を担っている――
という歴史を素直に受け止めるならば――
そうした極論に行きつくのは当然といえます。
最大の違いは――
明治政府の首脳部が、統帥権干犯問題などの制度上の欠陥に苦しんだ挙句、最終的には、自分たちの面子に拘るあまり、西欧列強に対し、
――勝てない戦い
を挑んで挫折を味わったのに対し――
徳川幕府の首脳部は、当初から、西欧列強を侮ることなく、決して、
――勝てない戦い
を挑まず、最終的には、自分たちの面子に拘らず、むしろ政権を手放すことで、明治政府の発足を間接的に助けているところです。
――明治維新の最大の功労者は誰か。
という話があります。
坂本龍馬か――
西郷隆盛か――
大久保利通か――
木戸孝允か――
伊藤博文か――
勝海舟か――
たしかに――
彼らが明治維新の功労者であることは誰もが認めるところですが――
最大の功労者は――
やはり、何といっても、
――徳川慶喜
でしょう。
徳川慶喜が、徳川幕府の最後の将軍として、あっさり政権を手放していなければ――つまり、武士の恥辱とか後世の汚名とかを恐れ、ひたすら政権の維持に拘っていれば――
日本列島は、戦国期の内戦状態に逆戻りをし、明治政府も容易には発足をしえなかったはずです。
そうなれば――
日本列島もアヘン戦争の事後処理に苦しむ中国大陸と何ら変わらない状況になっていたでしょう。
徳川慶喜のような、国益を第一に考え、自身の恥辱や汚名には鈍感となれる人物が、徳川幕府の末期に最高指導者の地位にあったことは、日本列島の人々にとっては、まことに幸甚でした。
そして――
忘れてはならないことは――
そんな人物を、政権の末期に、あえて最高指導者に押し上げた徳川幕府の組織としての柔軟性です。
もちろん――
徳川幕府の首脳部には、徳川慶喜の思考の闊達さについていけない人物も少なからずいたでしょう。
が――
ついていける人物も少なからずいた――例えば、勝海舟のような人物がいた――ということが、見逃せないのです。
いくら徳川慶喜が英明であっても、一人では何もできませんでした。
徳川慶喜を支えた人物が、徳川幕府の首脳部に一定数いたこと――これこそ、徳川幕府が“国家百年の計”の教育を誤らなかったことの証左といえます。