マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

建武政権の成立は“政体の復古”であった

 ――建武(けんむ)政権の後退性

 について――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ――建武政権

 というのは――

 鎌倉末期に即位をした天皇――後醍醐(ごだいご)天皇――が、鎌倉幕府の滅亡の後に打ち立てた政権です。

 

 いわゆる、

 ――建武の新政

 と呼ばれる新たな諸政策を試み――

 それら政策が後世の室町幕府によって部分的に受け継がれていくなど――

 それなりの先進性を示した政権でしたが――

 わずか3年で潰えた政権でもあります。

 

 ……

 

 ……

 

 きのうの『道草日記』でも述べたように――

 僕のいう「建武政権の後退性」は、

 ――“建武の新政”の頓挫

 を指しているのではありません。

 

 ――“政体――政治の体制――”の復古

 を指しています。

 

 具体的には、

 ――権威と権力との在り方

 です。

 

 思いっきり大雑把にいうと――

 平安期から鎌倉期にかけて――

 この国の政体は、

 ――権威と権力とが天皇ないし天皇の周辺に集まっていた状態から、権力だけが武家の棟梁ないし武家の棟梁の準じる指導者へと移り、権威だけが天皇ないし天皇の周辺に残った状態となった。

 と、みなすことができます。

 

 後醍醐天皇建武政権は、手元に残っていた権威を保った上で、武家の棟梁ないし武家の棟梁に準じる指導者へ移っていた権力を奪い返したわけですね。

 この後醍醐天皇による権力の奪回は、その後の時代――南北朝期、室町期――を経て、権力が再び武家の棟梁へ移っていくことと考え併せると――

 あきらかに時代の流れに逆行をしていたと、わかります。

 

 僕が、建武政権の成立を、

 ――政体の復古

 と、みなすのは――

 そうした理由によります。

 

 つまり――

 鎌倉幕府の時代には、権威と権力とが分かれていたにもかかわらず――

 建武政権の時代になって、それらを再び強引に結びつけようとした――

 ということです。

 

 ――強引に――

 というのは――

 後醍醐天皇が、武力を直接的には用いずに、権威を巧みに活かすことによってのみ、権力を奪い返そうとしたからです。

 

 もし、後醍醐天皇が、武力を直接的に用いて――例えば、自ら戦場に出向き、軍勢を率いて鎌倉幕府に戦いを挑み、それを滅ぼすことによって――権力を奪い返そうとしたのなら――

 それを、

 ――強引に――

 ということはできません。