マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

中大兄皇子の“責任感”あるいは“覚悟”

 ――大化の改新で有名な中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、白村江(はくすきのえ)の戦いの後の危機的な状況に接し、“権威と権力との緩やかな統合”を捨て、“権力と権威との癒合”に踏み切ったのではないか。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 もう少し噛み砕いていうと、

 ――責任の所在をより明確にした。

 ということではなかったか、と――

 僕は思います。

 

 中国大陸に興った皇朝・唐からの外交圧力に抗うべく――

 クーデターを起こして蘇我氏の専横を正し、“権威と権力との分離”を終わらせ――

 軍事・外交・政治の権力を一手に引き受ける一方で、自ら天皇の位に就くことは拒むことで、“権威と権力の緩やかな統合”を試み――

 白村江の戦いで敗れて、皇朝・唐からの外交圧力が増し、日本列島への侵略を覚悟したことで、あえて“権威と権力との癒合”に踏み切った――

 そういうことではなかったかと思うのです。

 

 外国と戦争をするにせよ、外国と交渉をするにせよ、外国に服従をするにせよ――

 日本列島の政権が挙国一致で対応をするには、政権のトップが誰であるのかを明らかにしておく必要があります。

 

 そのために――

 中大兄皇子は、クーデターで政権を握ったという過去を抱えたままに天皇の位に就いたと考えられます。

 

 もちろん――

 そんなことが可能であったのは――

 クーデターを起こした後、しっかりと軍事・外交・政治の権力を一手に引き受けていたからです。

 

 もし、権力の掌握が不十分であったなら――

 白村江の戦いで敗れた後、失脚をしていたに違いありません。

 

 白村江の戦いで敗れたのは、中大兄皇子の政権の判断が甘かったから――もっといえば、中大兄皇子の判断が甘かったから――に他ならないからです。

 軍事や外交は、中大兄皇子の苦手とするところであったのでしょう。

 

 というよりも――

 当時の日本列島の人々は、対外戦争や対外交渉の経験が殆どありませんでした。

 

 中大兄皇子も、そうであったはずです。

 

 が――

 国内治世の経験は豊富であった――少なくとも、政権の首班としての力量は確かであった――

 そのように、僕は考えます。

 

 それゆえに――

 白村江の戦いで失敗をしても、中大兄皇子は政権を保つことができたのでしょう。

 

 中大兄皇子の政権の首班としての求心力の一つに、

 ――クーデターを起こした者の責任感

 があったことは想像に難くありません。

 

 あるいは、

 ――最期まで日本列島の人々と運命を共にする覚悟

 です。

 

 外国の軍隊が攻めてきたら、自ら先頭に立って戦う――和平の模索は自らの主導で行う――不幸にして服属を強いられる場合には、自らの裁量で服属を決める――服属を強いられた結果、自身が処刑をされることも厭わない――

 その覚悟です。