――大化の改新で有名な中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、“権威と権力との緩やかな統合”に成功をした。
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
具体的には、
――自ら権力を一手に引き受けた一方で、権威を手に入れることは拒んだ。
ということです。
別の人物を天皇に立て――
自らは、その後継者の地位に甘んじたのですね。
なぜ、自ら天皇にならなかったのか――
クーデターを起こしてまで権力を握った理由は、決して天皇としての絶対的な権威が欲しかったからではない、ということを――
国の内外に明らかにする狙いがあったと考えられます。
その狙いが何のためであったかというと――
それは――
おそらく、
――中国大陸に興った皇朝・唐の外交圧力に効果的に抗うための体制づくり
でした。
当時の日本列島の人々は――
中国大陸の勢力が、朝鮮半島を経て、日本列島に襲い掛かってくることを深刻に恐れていたと、いわれています。
日本列島への侵略を跳ね返すには、軍事・外交・政治を司る権力が、天皇としての絶対的な権威と密接に連携をとった上で、粛々と行使をされていくことが必要でした。
権力を用いる側と権力に仕える側とが同じ権威の前に等しく跪(ひざまず)いている必要があったのです。
――クーデターを起こして強引に権力を握ったのだから、天皇にはならないほうがよい。
という発想は――
現代の日本列島に住まう多くの人々にとっても、大いに理解をされやすいところでしょう。
とはいえ――
この発想が中大兄皇子の優れていた点である――
というわけではありません。
中大兄皇子の優れていた点は、軍事・外交・政治を司る権力を人任せにせず、自ら一手に引き受けたところです。
それは、
――クーデターを起こした者の責任感
といえました。
明治政府の首脳部の誰もが希薄であった責任感といってよいでしょう。
そして――
現代の日本列島に住まう多くの人々にとっても――
それは、おそらくは、なかなか理解をされにくい責任感です。