――大化の改新で有名な中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の優れていた点は“クーデターを起こした者の責任感”であり、その“責任感”は明治政府の首脳部の誰もが希薄であった。
ということを、4日前の『道草日記』で述べました。
明治政府の首脳部は、なぜ中大兄皇子から学ばなかったのでしょうか。
歴史を軽んじていたのでしょうか。
……
……
実は――
大化の改新のことが、ある程度、知られるようになったのは――
昭和前期に入ってからのことです。
明治政府の首脳部がクーデターを起こし、政権を奪いとったときには――
ほとんど知られていなかったようです。
……
……
このことは――
僕にとっては、かなり意外でした。
実は――
大化の改新のことが広く知られるようになったのが昭和前期に入ってから、ということを――
僕は、つい最近まで知りませんでした。
てっきり、
(明治政府の首脳部は、大化の改新を手本に明治維新を起こした)
と思い込んでいました。
(その割には、中大兄皇子のことをよくわかっていない。なぜ明治政府の首脳部は中大兄皇子に倣って“権威と権力との緩やかな統合”を目指さなかったのか)
と訝っていました。
……
……
裏を返すと――
もし、明治政府の首脳部が、現代の僕らと同じくらいに、大化の改新のことをわかっていたならば――
もう少し違ったやり方を採っていた可能性がある――
ということです。
12月30日や12月31日の『道草日記』で――
有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁(たるひと)親王のことに触れましたが――
ひょっとすると――
つまり――
権威の体現者である明治天皇に代わって、有栖川宮熾仁親王を権力の行使者とする――
ということです。
そうしていれば――
明治政府においても、軍事・外交・政治が混然一体に担われていたはずで――
そうなっていれば――
後年の“統帥権干犯問題”は生じず、ひいては無責任な政体――政治の体制――も生じず、「太平洋戦争」の苦汁を舐めることもなかったかもしれない――
そう思います。