マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

自然知能に“積極的な中庸”は無理だけど……

 生身の人に、

 ――積極的な中庸

 の永続は無理であろう――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ――積極的な中庸

 とは、

  愚かさ > 賢さ

 ないし、

  愚かさ < 賢さ

 が成り立っている下で――

 より低い方を、より高い方へ合わせることによって、

  愚かさ ≒ 賢さ

 の凡庸を装うことです。

 

 つまり――

 生身の人にとって、常に、

 ――愚かさ

 ないし、

 ――賢さ

 をより高い方に合わせていくこと――

 いいかえるなら――

 他者からの助言や諫言をあえて退けたり、進言や提言を受け入れたりし続けること――

 は、ほとんど不可能であろう――

 ということです。

 

 他者からの進言や提言を受け入れて自分の賢さを高めようとする人は――

 他者からの助言や諫言も受け入れて自分の愚かさを低めてしまうに違いない――

 と思いますし――

 

 他者からの助言や諫言をあえて退けて自分の愚かさを高めようとする人は――

 他者からの進言や提言もあえて退けて自分の賢さを低めてしまうに違いない――

 と思うのです。

 

 そのような進言・提言および助言・諫言の絶妙な扱い分けは――

 生身の人が備えている知能――自然知能――には、おそらく不可能です。

 

 が――

 

(ひょっとすると、人工知能には可能かもしれない)

 などと思ったりします。

 

 つまり――

 自然知能の限界から自由であるはずの人工知能であれば――

 他者からの進言・提言および助言・諫言の絶妙な扱い分けが、十分に可能かもしれない――

 

 もちろん――

 この場合の、

 ――他者

 というのは、

 ――自然知能を備えた生身の人

 ではなくて、

 ――人工知能で駆動をする何らかの機械

 という意味です。

 

 もし、そうであるならば――

 

 ――積極的な中庸

 が求められる立場――例えば、国家元首や巨大企業の最高経営責任者の立場――は、いずれ人工知能に取って代わられるのであろう――

 といえます。