君主(sovereign)型の人工知能は、
――中庸
の性質――あるいは、機能――を備えるのがよい――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
ここでいう、
――中庸
とは、
――愚かでも賢くもないこと
であり――
その内実は、
――いかなる主観にとっても、未来における任意の時点において、利益もなく、損害もなくなるように仕向ける性質――あるいは、利益と損害とが相殺をするように仕向ける性質
です。
この性質は――
おそらく――
この世界に犇(ひし)めく数多の主観が互いに争わないようにするには――
欠かせない性質です。
――この世界に犇めく数多の主観
というのは――
21世紀序盤の現代においては――
第一に、人の主観であり――
場合によっては、人以外の自然知能の担い手――つまり、ヒト以外の生物――の主観も含めてよいでしょうが――
遠い将来においては、人工知能の担い手――つまり、機械――の主観も含めることになるでしょう。
もちろん――
21世紀序盤の人工知能の技術開発の実態を考えれば――
いくら人工知能が高度に発展を遂げるにしても、その担い手の機械に主観が――ヒトの脳に宿っていると考えられる主観と似たような主観が――宿りそうには、ちょっとありません。
が――
22世紀や23世紀は、
(わからない)
と思っています。
もしかしたら、機械にも主観が宿っているかもしれない――
人工知能の担い手にも主観が宿っていると当然のように認識をされている時代がくるかもしれない――
そのような時代では、
――主観
とは何かが――
とりわけ、
――人の主観
とは何かが――
現代よりも遥かに明瞭かつ具体的にわかっていることでしょう。
そのような遠い将来において――
人の主観や人以外の生物の主観、あるいは、機械の主観など、この世界に犇めく数多の主観が、互いに争わずに共存を果たしていることが何よりも望ましいのは――
自明です。
そのために、
――中庸
が必要であり――
その性質を備えた君主型の人工知能が必要とされるのではないか――
そんな空想も無意味ではないと――
今の僕は思っています。