マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

中庸を全うするに相応の人工知能

 中庸を備えた人工知能は、人に損害を齎(もたら)さない一方で、利益も齎さないことから、有用な機械ではありえない――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 たしかに――

 人工知能が人の役に立つ機械であるためには――

 その中庸の程度は、

 ――ほどほど

 に止まっていることが必要です。

 

 とくに――

 今日の主流である神託(oracle)型の人工知能についていえば――

 その中庸をほどほどの程度に保っていないと――

 ほとんど人の役には立たないでしょう。

 

 割り切れない割り算を命じると、

 ――とりあえず有効数字 3 桁で答えを出しますが、その割り算をなぜ、わざわざ私に?

 と訝しんだり――

 検索機能にキーワードを打ち込むと、

 ――ひとまずお示しできる情報は次の通りですが、これで全てというわけではありません。

 と注釈をつけたりするに違いないのです。

 

 ところが――

 ジーニー(Genie)型や君主(sovereign)型の人工知能では――

 このような神託型の人工知能としての“役立たなさ”は――

 それほど不自然には感じられないでしょう。

 

 むしろ、自然に感じられる――

 

 人工知能に割り切れない割り算を延々とさせる必要は、よほど特殊な事情でもない限り、ありえませんし――

 人工知能がキーワードの入力に応じて挙げる情報には、洩れがないよりはあるほうが多いに違いありません。

 

 そのような意味で――

 中庸を全うする人工知能にも存在意義はあります。

 

 ――中庸

 は――

 神託型の人工知能には無益ですが――

 ジーニー型や君主型には無害なのです。

 

 とくに――

 君主型の人工知能には、

 ――中庸

 は欠かせない性質――あるいは、機能――でしょう。

 

 君主型の人工知能は、中庸を全うするに相応の人工知能といえます。