マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

知能の本質

 ――愚かさ

 とは、

 ――知能が目的を成しえない様子

 である、ということを――

 1月2日の『道草日記』で述べました。

 

 その目的が、

 ――個の生存

 であれば――

 愚かか否かの判断は、比較的に容易です。

 

 その知能を備えている個体が――

 もし生存に失敗をすれば――

 

 ――愚かである。

 と判断をすればよいのです。

 

 例えば―― 

 空中を飛ぶ昆虫が、その走光性によって、人工の光源と接触をし、焼け死ぬ場合を思い浮かべればよいでしょう。

 

 が――

 その目的が、

 ――種の存続

 であれば――

 判断は容易ではありません。

 

 少なくとも――

 判断には長大な時間を要します。

 

 1つの生物種が存続に失敗をし、絶滅をするところを見届けるのは――

 並大抵の時間では済みません。

 

 人の一生の長さを超える場合が殆どでしょう。

 

 よって、

 ――愚か

 か、

 ――賢い

 かを見極めるのは――

 ――愚かさと賢さとは表裏一体である。

 という命題の正否を措くにしても――

 困難です。

 

 実際には――

 その命題は正しいように思えますから――

 

 ――愚か

 か、

 ――賢い

 かを見極めるのは、とんでもなく困難なのです。

 

 そして――

 もし―― 

 その目的が、

 ――個や種の幸福の追求

 であれば――

 ほとんど絶望的に困難であるといわざるをえません。

 

 そもそも、

 ――幸福

 の評価基準が難しい――

 

 人という生物種に限ったところで――

 その評価基準は千差万別です。

 

 人以外の生物種にも枠を広げれば――

 さらに千差万別でしょう――ほとんど共有をしえないかもしれない――

 

 ……

 

 ……

 

 ここに、

 ――知能の難しさや割り切れなさ

 があるといって、よいでしょう。

 

 もっと素直に、

 ――知能の素晴らしさ

 があるといっても、よいかもしれません。

 

 僕は、

 ――知能の本質

 があるといいたい――

 

 ――愚か

 か、

 ――賢い

 かを簡単に見極められないのが知能なのです。