マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

小説のことは小説家にしかわからないのか

 今日の朝日新聞(宮城版)の文芸欄をみていたら、

 ――「小説のことは小説家にしかわからない」というのは誤りだ。

 という評論に出くわした。
 ある文芸評論家の主張である。

 正確には――
 そのような主張を掲げた別の文芸評論家の言が引用されていた。

 はたして――
 小説のことは小説家にしかわからないのか。

 もちろん、そのようなことはない。
 小説家でない人にも、小説のことはわかる。

 僕は小説を書く側だ。
 だから、心情的には、

 ――小説のことは小説家にしかわからない。

 と強弁したい。

 けれども――
 それは言い過ぎだ。

 ただし、

 ――小説を書く者にしかわからないことがある。

 というなら、正しい。

 例えば――
 しばしば、

 ――優れた小説は暗示に訴える。

 などといわれるが――
 この真意は、おそらくは小説を書く者にしかわからない。

 実際には――
 すべてが暗示された小説などは読むに耐えないのであり――

 結局のところは――
 書き手にとって重要なメッセージだけが暗示される。

 書き手にとって瑣末なことは、暗示ではなく、明示されるのが普通だ。

 ここに――
 枝打ちの原理が働く。

 小説を書く者は、

 ――何を暗示するか?

 ではなく、

 ――何を明示するか?

 に、神経を擦り減らす。

 かかる枝打ちに苦しんだ経験がある者なら、優れた小説は暗示に訴えるとは、決していわないはずだ。

     *

 正直にいえば――
 文芸評論家の小説批評の多くが、僕には退屈だ。

 彼らの論は、小説を書く者にしかわからないことに、無頓着である。

 当たり前だが――
 小説を書く者は、小説を読むこともできる。

 よって――
 文芸評論家の論に興味をもち、その行き先を追うことは、難しくない。

 が――
 その論が期待通りに深まっていかないと、苛立ちを覚える。

(ああ、わかってないんだな)
 と思ってしまう。

 繰り返す。

 小説を書かない者に小説批評の権利はない、などと主張するつもりはない。
 批評はかまわない。

 が――
 以下の点には留意すべきである。

 すなわち――
 小説を書かずに小説批評の権利を行使するならば――
 小説を書かない者の強みを存分に活かすことである。

 小説を書かない者の強みは――
 小説を書く者にしかわからないことを知らない、という点だ。

 その未知を動機に変える。

 未知を既知と騙って――
 上っ面の論に終始すべきではない。

 遠い異国の情景は――
 当地を知らぬが故に、光り輝く。

 それで良いではないか。

     *

 僕は、映画というものを撮ったことがない。

 もし、僕が映画批評を書くのなら――
 映画を撮る者にしか知りえないことへの肉迫を試みる。

 その緊迫感を演出したい。