加藤周一さんが亡くなりました。
5日の午後のことだったそうです。
昨日の新聞が伝えています。
僕は、加藤さんにお目にかかったことはないのですが――
どうもお目にかかったことがあるような気がしてならないのですね。
その顛末をお話しますと――
*
僕が「加藤周一」という名を初めて意識したのは――
たしか高校1年の初夏でした。
学校の現代文の先生が、
――この人は、わかりやすい評論を書くことで有名なんですが――
とコメントを挟まれたのです。
その先生は、着任したての若い男性でした。
たぶん今の僕より10歳ほど若かったはずです。
そんな若い先生に「わかりやすい」とコメントされたのですから、
(あ、この人は若者向けの評論を書く人なんだ)
と思い込みました。
(そういえば、中学の国語の時間で読んだ評論の中に「加藤周一」のものがあった気もするし……)
と――
のちに、とんでもない誤解であったと気付くのですが――
いえ――
「わかりやすい評論を書く」というのは間違っておりません。
加藤さんの評論は、たしかに読み解きやすい――
「誤解」というのは――
加藤さんの評論は、決して「若者向け」で通俗的なものではなかった、ということです。
そのことに――
僕は、大学生になって学習塾で高校生を相手に現代文を教えるようになって、ようやく気付きました。
加藤さんの一文に『文学とは何か』があります。
1991年の大学入試センター試験(追試験)で出題されました。
この中で――
加藤さんは、20世紀初頭の小説家・梶井基次郎の『檸檬(れもん)』のレモンを引き合いに出し――
科学と文学との類似性、また、それらと日常との異質性を論じておられます。
こんな題材――
論じるのは、そう簡単ではないですよ。
文学と科学との異質性なら誰でも論じられるでしょうが、その類似性となれば、至難の業です。
しかも、わかりやすく論じるというのは――
が――
加藤さんの論は、わかりやすいのです。
難解ではありますが、論点が整理されていて、論の展開が論理的で、奇怪なところがないのですね。
そうです。
加藤さんの評論がわかりやすいというのは、この意味において、だったのですね。
ほどなくして――
僕は、加藤さんが東京帝国大学を卒業した医師であり、血液学者としての経歴をお持ちであったことを知ります。
その頃――
僕は、東北大学で血液学の初歩に触れていました。
それから10年ほどが経って――
勤め先の病院で、加藤さんの1級後輩であったという老医師の方にお目にかかりました。
その方は、加藤さんの自叙伝『羊の歌』をお読みになっていました。
僕は、その方の医学生時代の記憶を通して、加藤さんの医学生時代を知りました。
加藤さんにお目にかかることは、ただの一度もなかったのに――
なぜか、お目にかかったことのあるような気がするのは――
たぶん、このためでしょう。