マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

話し手に良識のあることが保証されてはじめて

 わかりやすい話というのは、少なからず嘘を含んでいることが多いのですね。
 とくに、自然現象などの複雑なメカニズムを説明する話がわかりやすいときには、要注意です。

 話をわかりやすくするために、事実の一部分を故意に無視したり、逆に誇張したりするということが――
 よくあるからです。

 そのような「無視」や「誇張」が、ここでいう「嘘」に相当します。

 きょうも、ある評論文を読んでいて、
(とてもわかりやすい)
 と思いました。

 同時に、
(だいぶ嘘を含んでいる)
 とも思いました。

 その文章は、人体の病気を引き起こすメカニズムについて述べてありました。

 よって、「評論」というよりは「医学の総説」の体裁をとっていたのですが――
 実質的には、評論文になっていました。

 評論文では、筆者の主観に基づく価値観や審美眼が論じられます。

 その総説には、そうした価値観や審美眼が、詳細に読解しなければわからないくらいに精緻に盛り込まれていました。

 そうした技巧を的確に見ぬける読者にとっては、とても面白い読み物なのですが――
 それを見抜けない読者にとっては――いいかえると、医学や自然科学の専門知識や基本理解のない読者にとっては――少なからず衒学的な文章になっているはずです。

 とはいえ――
 そのような文章が読者に好まれることは明らかなのですよね――だって、とてもわかりやすいのですから――

 結局のところ、そのような文章で、最終的に試されているのは、読者の知識や理解の程度ではなく、

 ――筆者の良心

 なのです。

 わかりやすい話の真価は、話し手に良識のあることが保証されてはじめて、光り輝くでしょう。