マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「純文学」という言葉を目にしたときに

 ――純文学

 という言葉を目にするときに――
 いつも僕が思うことは、
(何が“純”なんだよ?)
 ということです。

 日本語の「文学」は――
 少なくとも第一義としては、

 ――言語表現による芸術

 という意味ですから――
 理屈の上では、「純文学」を、

 ――純粋に言語表現のみによる芸術 (A)

 と解釈するか、

 ――言語表現による純粋な芸術 (B)

 と解釈するかのどちらかです。

 ところが、(A)は、「言語表現のみ」の意味するところが明解で、わかりやすいのですが、(B)は、「純粋な芸術」の意味するところが明解でなくて、わかりにくいのですよね。

 よって、「純文学」の意味としては、(B)ではなく、(A)で受容すべきなのでしょうが――
 実際には、(B)で受容している人たちが圧倒的に多いように思います。

 かくいう僕も、そうです。

 つまり、僕らは、「純文学」という言葉を使うときに、暗黙の裡に、「純粋な芸術」という曖昧な概念を前提としてしまっているのではないか――

 なので――
 僕は、「純文学」という言葉を目にするときに――
 いつも思うのです。

(何が“純”なんだよ?)
 と――

(「純粋な芸術」って何なんだよ?)
 と――

(「純粋でない芸術」というのが、あるのかよ?)
 と――

 ……

 ……

 どういうことか――

 ……

 ……

 もし、この世に「純粋でない芸術」という営みが存在しうるのだとしたら――
 たぶん、「純粋な芸術」という概念は想定しえない、ということです。

 その場合は、

 ――芸術とは、美を追求するだけでなく、常に美以外も追求する営みである。

 という定義になるでしょう。

 逆に――
 もし、この世に「純粋な芸術」という営みが存在しうるのだとしたら――
 たぶん、「純粋でない芸術」という概念は想定しえない、ということです。

 その場合は、

 ――芸術とは、多少なりとも美を追求する営みの全てである。

 という定義になるでしょう。