マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

小説とは何だろう?

(小説とは何だろう?)
 と、あらためて考えた。

 小説とは、物語を伝える手法の一つである。
 文芸的な手法だ。

 もちろん――
 実際には、そう単純には割り切れない。

 例えば、伝えられようとしている物語が希薄であり、その手法の文芸的側面のみが強調されている小説もある。
 それらも含めて、小説である。

 一般に、小説には上手・下手がある。
 これに異論はあるまい。

 注意すべきなのは――
 小説の上手・下手は、小説という手法の文芸的側面のみに、あてはまる概念だ、ということである。

 つまり、小説の上手・下手と、その小説が伝えようとしている物語の上質・下劣とは、明確に区別されるべきだ、ということである。

 より正確には――
 物語の上質・下劣は、小説の上手・下手からは、わからない、ということである。

 こういうと、不審に思われる向きも、あるかもしれない。
 が、そんなにおかしなことは、いっていないつもりだ。

 例えば――
 自分の物語を小説に書いたが相手にされず、映画に撮ったら絶賛された――というような例は、いくらでもあるのではないか。

 その逆もありえよう。

 一般に、小説が評価されるときには――
 その手法の文芸的側面への評価と、その手法が伝えようとしている物語への評価とが、混同されやすい。

 手法の文芸的側面の評価は容易である。
 書かれている文章を精査すればよい。

 が、物語の評価は困難だ。
 書かれている文章を精査してもわからない。
 手法の文芸的側面がイマイチのときは、なおさらだ。

 そういうときは――
 書いた本人に、直に問い質すしかない。

 ――あなたは、どういう物語をお紡ぎですか?

 と――

 このような事情があるので――
 僕は、いわゆる小説の批評文というものには、一定の疑いをもっている。
 小説のことを知ろうと思ったら、小説を読むしかない。

 小説の批評文からわかることは、たいていの場合、その批評文を書いた者の力量だけである。
 小説という手法を、どれくらい理解しているか――
 物語を吸収する感性が、どれくらい確かなのか――