言葉は、いくらでも独りよがりに使うことができます。
だから、例えば――
子供が書くような詩は、ときに何のことやら、よくわからない――(笑
大人も知らないような難しい言葉を書き連ね、さも重大事であるかのように何事かを吐露する詩をみかけることがありますが――
まあ、たいていは独りよがりにとどまっています。
言葉で伝えることの困難さを痛感していないと――
どうしても独りよがりになってしまうものなのですね。
――詩は独りよがりでいいんだ!
と開き直る詩人もいるようですが――
そのような主張の根拠に挙げられるのが、
――詩の解釈多岐の許容性
です。
その詩が何を描いたものかは鑑賞者が決めてよい、とする思想ですね。
それは、その通りかもしれません。
詩を、小説や評論や随筆から選別する基準の1つとして、そうした「解釈多岐の許容性」を据えてもよいでしょう。
が――
その際の「解釈」とは、文脈の解釈であって、文意の解釈ではないと、僕は考えます。
文脈というのは――
例えば、女が男を想(おも)っているときの、その状況ですね――あるいは、どういう女が、どういう男を想っているのか――
文意というのは――
例えば、女が男に対して行う所作の内容ですね――想っているのか、憎んでいるのか、語っているのか、殴っているのか――
つまり、詩において――
少女が少年を想っているのか、それとも母親が息子を想っているのかを、読者の自由な解釈に任せる、ということはありえても――
少女が少年を想っているのか、それとも少女が少年を殴っているのかを、読者の自由な解釈に任せる、ということはありえない――
ということです。
詩であろうと詩以外であろうと――
常に文意が正確に伝わるように工夫すべきであるということは――
文芸の最低限のマナーといってよいでしょう。