マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

医学の楽しさ、医学の不幸

 医学を学び始めて14年になりますが――
 最近、ようやく医学の楽しさがわかってきました。

 大学1、2年の頃は、それが全然にわからずに、ずいぶん苦労しましてね。

 なぜ、あの頃は楽しめず、今は楽しめているのかというと――
 少なくとも僕の場合は――
 医学の全貌がみえているか、みえていないかの違いだったと思います。

 医学は、生物学に似ており、それゆえに、

  医学 = ヒトの生物学

 という図式が示されることもありますが――
 この図式に縛られているうちは、医学の全貌はみえません。

 医学は医療と不可分です。
 実際に家庭や職場や街頭などで病気に教われ、その後、病院などで治療に取り組む人間の姿をみることなしには、いかなる医学的知見も消化することはできません。

 医学では、学問体系としての完成度は二の次です。
 病気で苦しんでいる人たちを前にして、何をしてあげられるのかを考え、その考えを実行に移すにはどうしたらいいのか――その方法論としての完成度が、医学では一番に重視されるのです。

 だから――
 医学を学んでいると、ときに深刻な矛盾に気づきます。

 ひところ盛んに議論された臓器移植医療などは、その典型といえます。
 ドナーやドナーの診療に携わる人たちと、レシピエントやレシピエントの診療に携わる人たちとの間には、広く深い溝があります。
 実に深刻な矛盾です。

 そうした矛盾を無くそうとするのではなく、矛盾を抱えたままで何ができるか――
 それを考え続けるのが医学の面白さです。

 医学と医療との不可分性は、医療を踏まえない限り、医学は理解できないことを示唆します。
 つまり、医療従事の経験がなければ医学を楽しむことは難しい――

 それは、明らかに医学を非普遍的な学問へ変質させている要素といえます。
 医学にとっては、まことに不幸な事情といわなければなりません。

 そのような非普遍的な性質を帯びているということは――
 医学は、厳密には、学問ではないのかもしれません。