マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「天下国家」を論じなくても

 最近のお年寄りの中には、

 ――最近の若者は天下国家を論じない。私たちが若かった頃は、よく皆で意見を言い合ったものだ。

 という人たちがいます。

 たしかに、その通りでしょう。

「若者」に限りませんよ。
 僕の印象では、ほぼ全ての年代で、いわゆる「天下国家」を論じることが廃(すた)れています。

「天下国家を論じる」とは――
 この国の政治の枠組みや社会の在り方について、真剣に議論をするということです。

 たしかに――
 そうした議論を、最近の「若者」は、ほとんどしません。

 それゆえに、

 ――情けない。

 と吐露するお年寄りがいます。

 ――最近の若者は天下国家も論じられないのか。

 と――

 ――若者たちよ、もっと論じよ!

 と――

 僕は、それは違うと思っているのですね。

 最近の「若者」が「天下国家」を論じないのは、その必要がないからです。
 今の状況は、今のお年寄りが若かった頃とは違います。

 戦中や戦後の混乱期は、政情は不安定で、経済も脆弱でした。
 どうにか戦争を生き延びたけれども、日々の暮らしはおぼつかなかった――

 そういう状況では、人々は「天下国家」を論じざるをえない――
 そういう欲求を抑えることが難しく、また、そういう欲求を満たすことで、生きる活力は得やすくなった――

 が、今は、それほどではありません。
 そういう欲求が抑え難くなるほどに、日々の暮らしに困っているわけではありません。

 もちろん、日々の暮らしに困っている人たちもいないわけではありませんが――
 そういう人たちが過半であるとは、ちょっと思えません。

 そもそも、今は、戦中や戦後の混乱期のように、生存が厳しく脅かされているわけではありません。
「困っている」のレベルが違うのです。

 もちろん、最近の「若者」の中にも「天下国家」を論じる人たちはいますよ。

 僕だって、そうです。
 好んで論じます。

 が――
 それは、面白いからです。

 面白いから論じているにすぎません。

 論じることが真に必要かと問われれば、

 ――それほどではない。

 と、僕は答えます。
 だから、最近の「若者」が「天下国家」を論じないからといって、とくに目くじらを立てることはないと、僕は考えています。

 ただし、5年先にどうなっているかはわかりません。
 真剣に「天下国家」を論じなければならない状況になっているかもしれない――

 それは、おそらくは、この国の人たちにとっての不幸です。