マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

国家論的性善説・性悪説

 ――日本国は性善説に立って戦争放棄憲法で謳っているが、ほとんどの諸外国は性悪説に立っている。

 などといわれることがあります。

 大まかには、その通りですが――
 表現としては、やや不正確です。

 何より、わかりづらい――

 ――性善説

 や、

 ――性悪説

 の意味するところが必ずしも明確ではないからです。

 ……

 ……

 いわゆる性善説性悪説は、古代中国で唱えられた思想ですが――
 どちらも個人の善悪とその先天性および後天性とを論じています。

 すなわち――
 人は生まれながらに善であるが、成育とともに悪を身につけるという考え方が性善説であり――
 人は生まれながらに悪であるが、成育とともに善を身につけるという考え方が性悪説です。

 国家は――
 通常、複数の個人から成る組織(政府)によって意思が決定され、かつ個人よりも遥かに長い寿命をもち、「先天性」や「後天性」「成育」といった概念にはなじみません。

 よって――
 いわゆる性善説性悪説を国家にあてはめることには無理があります。

 国家の善悪を扱うのなら――
 新たな性善説性悪説を定義する必要があるでしょう。

 いま、

 ――いかなる国家も、自衛に専念し、他国への侵略は行わない。

 との命題を考え――
 これを、

 ――国家論的性善説

 と呼びましょう。

 また、

 ――いかなる国家も、自衛のためなら、他国への侵略を行う。

 との命題を考え――
 これを、

 ――国家論的性悪説

 と呼びましょう。

 戦争放棄を謳う日本国は“国家論的性善説”に依っています。

 一方――
 ほとんど全ての諸外国が依っているのは“国家論的性悪説”です。

 これら2説の分水嶺は何か――

 それは――
 大まかにいえば、

 ――侵略の可否

 です。

 すなわち――
 国家というものは――
 本来いかなる侵略も行わない――
 というのが“国家論的性善説”であり――
 時や場合によっては侵略を行う――
 というのが“国家論的性悪説”です。

 が――
 この分水嶺の頂きにあるものは、単なる「侵略の可否」ではありません。

 そこにあるものは、

 ――自衛のための侵略の可否

 です。

 すなわち、

 ――このままだと、いずれ侵略をされるから、その前に侵略をする。

 という考え方です。

 この“自衛のための侵略”を“国家論的性善説”では否とみなします。

 一方、“国家論的性悪説”では可とみなします。

 すなわち――
 国家の善悪を論じる際に、もっとも鋭敏な識別の基準は“自衛のための侵略の可否”です。

 よって――
 冒頭の表現は、次のように改めるのが、よいでしょう。

 ――自衛のための侵略を、日本国は否とみなし、ほとんどの諸外国は可とみなしている。

 このように改めると――
 言葉としては、身も蓋もなくなりますが――
 そのぶん――
 意味としては、わかりやすくなります。