マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

PCR検査の議論が面白くならない理由

 いわゆるPCR(polymerase chain reaction)検査の問題を――

 この1週間くらいの間ずっと論じてきましたが――

 

 ……

 

 ……

 

 面白くないのですよね――この話――

 

 ……

 

 ……

 

 (なんで、面白くないんだろう?)

 と思って――

 ちょっと考えてみたのですが――

 

 たぶん――

 その理由は、

 ――PCR増論者もその反対者も、最終的には、感情に根ざして論じざるを得ないから――

 です。

 

 PCR検査の議論は――

 突き詰めて考えれば、

 ――感情的な水掛け論

 です。

 

 もちろん――

 そんな“水掛け論”など、本当は誰だってやりたくないので――

 “水掛け論”にならないように、それなりに工夫をします。

 

 僕自身も――

 皆さん、おわかりのように――

 僕はPCR増論に反対の立場ですが――

 やっぱり、できるだけ“水掛け論”はやりたくないので――

 それなりに工夫をしました。

 

 その工夫が、ある程度は功を奏し――

 いっけん“水掛け論”ではないように感じられるかもしれないのですが――

 

 突き詰めて考えれば、

 ――感情的な水掛け論

 にしかなっていない、と――

 僕は思います。

 

 例えば、 

 ――不安だよ。PCR、もっと増やせよ。

 ――日本の恥だよ。PCR、増やせよ。

 という主張に対し、

 ――危なっかしいことをさせるなよ。

 ――しょせん、ないものねだりなんだよ。

 という主張で抗する――

 そういう構図の“水掛け論”です。

 

 こうした構図の不毛さに加え――

 個人の失策が、PCR増論者によって、国家の失策であるかのように捉えられてしまった一面もあるのではないか、と――

 僕は思っています。

 

 PCR増論者によって、よく、

 ――PCR検査が明らかに必要なのに、拒否された。

 との指摘がなされていましたが――

 そうした指摘の背景には、

 ――本当は「PCR検査が明らかに必要」とまではいえなかったのに、つい「明らかに必要」と思い込んでしまった。

 とか、

 ――「PCR検査が明らかに必要」という状況が巧く説明できずに、結局、きちんと伝えることができなかった。

 とか、

 ――「PCR検査が明らかに必要」という状況が巧く説明されたのだが、それを理解するだけの知識がなかった。

 といった個人の失策――PCR検査の実務に関わる人たちやその周辺の人たちによる個別具体的な瑕疵――が数多く潜んでいたと想像します。

 

 それら失策の多くは、誤解や不注意、不用意に起因しているはずです。

 そうした個人の失策が針小棒大に拡大解釈されて、

 ――国家の失策だ!

 という主張に結びつけられてしまったのではないか――

 

 もちろん――

 失策というものは、ないにこしたことはなく――

 とくに人命に関わる失策は、決してあってはならないのですが――

 

 それでも――

 人は、全能ではないので、どうしても失策をゼロにすることはできないのです。

 

 こうした、

 ――人の能力の限界の受容

 という原理的な諦観から完全に自由にはなれない領域で――

 PCR検査の問題は論じられています。

 

 しかも、

 ――感情的な水掛け論

 として、論じられています。

 

 面白くならないのは、当然です。