いわゆるPCR(polymerase chain reaction)検査のことで国論が二分されている状況に辟易としている人たちが多い――
ということを――
きのうの『道草日記』で述べました。
なぜ国論は二分されたのか――
……
……
極論をすれば――
――PCR検査を増やせ。
という声が大いに高まってきても――
ただ声が高まるだけで――
実際に、医療の現場やその周辺で、PCR検査の実施に携わっている人たちが、「よし! かなり無理をしてでも、PCR検査を増やそう!」と思えるような――そういう意義や必要性が、事実に基づいて論理的に提示されるようなことがなかったから――
ということに尽きると思います。
高まった声は凄まじかった――
それなりに多くの共感を得た――
が――
それに抗う声を封じ込められるほどの明確な根拠は提示できなかった――
それで――
国論が二分されてしまったのだと思います。
もちろん――
たぶん、例外はいくらでもあって――
例えば――
PCR検査の実施に携わっている人たちの中にも、
――よし! かなり無理をしてでも、PCR検査を増やそう!
と思った人はいたのでしょうが――
そういう人が多数派にはならなかった――事実に基づく論理的な提示がなかったので、多数派にはなりえなかったのです。
一方で、
――諸外国で可能だったことが、なぜ日本で不可能なのか。
といういい方でも問いが発せられていて――
それは、たしかに、もっともな問いなのですが――
その問いへの答えは、きわめて単純です。
すなわち――
日本国は、ウイルス感染症の蔓延の危機に、少なくとも直近の過去では、脅かされずに済んだから――
です。
もう少し具体的にいうと――
日本国は、2002年の重症急性呼吸器症候群や2009年の新型インフルエンザ・ウイルス感染症、2012年の中東呼吸器症候群では、ほぼ狙った通りに危機を回避できたから――
です。
これら直近の過去の事例でも、PCR検査やそれに類する検査は議論され、実施されてはいるのですが――
少なくとも日本国では、専門家を除き、ほとんど話題にはなりませんでした。
もし、それなりに話題になっていたら――
少しは世論が動いて、日本国政府も医療の現場も、少しは思い切った準備ができたでしょう。
そうしたら――
今頃、日本国内においても、諸外国と同じような数でPCR検査が実施されていたかもしれません。
幸か不幸か、
――そうはならなかった。
ということです。
このことに関連し、
――PCR検査が増えないのは日本の恥だ。
と主張する向きもありますが――
(ちょっと感情的すぎる)
と、僕は思います。
その種の恥は、何も今に始まったことではなく――
また、「日本」に固有のことでもないでしょう。
――我が事にならなければ、決して真剣に対応しようとしない。
そういう性質を「恥」と呼ぶなら、たしかに恥ですが――
それは、残念ながら、人の習性です。