小説を書く喜びの中核は、やはり、
――ホントにウソを混ぜること
にあると思います。
小説は、しばしばウソ(虚構)であることが強調されますが――
実際には、ホントにウソが混ぜられたものです。
ウソ100%の小説というのは――
おそらく、小説として成り立ちません。
例えば――
登場人物の日常生活や精神生活がウソ100%で塗り固められていたとすれば――
読むほうは何のことやらサッパリわからないことでしょう。
ホントの要素が含まれているから、例えば、現実の家族・友人のことや自分のことなどと照らし合わせることで、その登場人物のことを理解できるのです。
ウソを混ぜられるのは、小説の特権です。
評論や随想でウソを混ぜるのは許されません。
たいていは、あとで問題になる――
そもそも、そうしたウソは、評論や随想の質を低めます。
迫力も不足するでしょう。
もちろん、評論や随想においても、ウソをウソだと明瞭に断って混ぜるぶんには、一向に構いませんが――
それは本物のウソとは言い難い――
ウソは、ウソかホントかがわからないときに、威力を発揮します。
それとなく本物のウソを混ぜられるところが、小説の最大の長所ではないでしょうか。
逆に、評論や随想では、ウソが混じっていないという点が、最大の長所になります。
ウソ0%が評論や随想に迫力をもたらすのです。