昔は、
――なぜ人間同士は、わかりあえないのか?
ということばかりを考えていました。
戦争のこととか差別のこととかを念頭におきながら、です。
最近は、
――なぜ人間同士は、わかりあえるのか?
ということを考えています。
共感という現象が、その例です。
ある人とある人とが何かを話をし合っていて、何事かについて一致をみたときに――
その一致点以上の何かが――例えば、感情とか、感覚とか、余韻とかが――共有される現象を「共感」と定義するならば――
共感は、言葉によって明示されえない相互作用といってよいでしょう。
共感が言葉の垣根を飛び越えるということが事実であることは――
例えば、海外旅行の出先などで、言葉が通じ合わない者同士が共感し合っている現場を目撃すれば――
容易に納得できるでしょう。
共感が、本質的には言葉を必要としないのであれば、何が共感の鍵になっているのか――
ちょっと、その辺について考え始めたりすると、なかなかに興味の尽きない論点です。
このような場合に、生物学者は、
――遺伝情報が仲立ちをしているに違いない。
と主張するかもしれません。
個々の人間同士で比べたときに――
もちろん、遺伝情報は個々に千差万別なのですが――
それらの違いは、実は、ごく僅かなものです。
誤差みたいなものだといっても差し支えはない。
遺伝情報が、ほぼ同じであるということは、体の部品が、ほぼ同じであるということを意味しますから――
それら部品によって構成される中枢神経系の主要な機能である精神が、言葉による鎹(かすがい)を経ることがなくても、何らかの相互作用を起こしうることは――
想像に難くありません。
もちろん、遺伝情報の相同性に全ての理由を求めるのは愚かなことですが――
こうした生物学的な主張の根幹は、そんなにヤワなものではないということを――
僕らは等しく認めないわけにはいかないでしょう。
このような、
――なぜ人間同士は共感し合えるのか?
といった疑問に迫ろうと思ったら――
最終的には、生物学の知見に頼るしかないだろうと、僕は考えています。
人間が生物であるということを忘れた人間論や社会論や人生論や歴史論は――
今ひとつ迫力不足のように思うのです。