――努力は人格を歪める。
という考え方があります。
他の全てを犠牲にし、何らかの苦学や苦役を続けていると――
しだいに性格が悪くなって、いつしか他人と上手く付き合えなくなる――
ということです。
努力礼讃の精神からすれば、信じられない発想ですが――
あながち不合理とも言い切れない説得力を感じます。
「人格を歪める」と捉えるから過激なのであって――
「心に傷を付ける」と捉えれば、いくらか穏便なように思います。
努力をしすぎた人間は――
思うように努力ができなかった人間を、容易に蔑んでしまうものです。
――私にできることが、なぜ、あなたにはできないの?
と――
他人を蔑んでいるうちはいいのですが、しだいに自分自身を蔑むようにならないとも限りません。
過去に努力をしすぎた人間は――
思うように努力ができなくなった今の自分を、容易なことで蔑むでしょう。
今の自分が、過去の自分と照らし合わせ、今の自分を蔑むのです。
つまり、自分で自分を蔑んでいる――
心の自傷行為とでもいいましょうか。
努力は、できるときもあれば、できないときもあります。
人は、全ての課題で努力をすることは、おそらくは不可能です。
何事にも、向き・不向きがあるものです。
目の前の課題が、自分の努力で手に負えるときは、努力をしますし、手に負えないときは、努力をしません。
そういうものです。
にもかかわらず――
どんなときでも、どんな課題でも努力ができるのは当然であり、それができないのは、単に気持ちが弱いからだ、と考えてしまうとき――
心の自傷行為が始まります。