知識に依存しすぎると、思考を停止させてしまう――
という話を、ときどき見聞きします。
一般に、「知識」とは――
先人たちの思考の結論であることが、ほとんどです。
よって――
知識に依存しすぎて、その自覚が曖昧になっていると――
先人たちの思考の結論を、自分自身の思考の結論であるかのように錯覚しかねない――
「思考を停止させてしまう」とは、そうした意味です。
よって、
――大切なのは知識ではない。思考である。
という主張が展開されることになるわけですが――
……
……
ことは――
そう単純ではありません。
知識は――
思考を停止させる一方で――
思考を正確にします。
知識が欠乏しているのに、いくら思考を継続したところで――
導出される結論は、無益であるばかりか、かえって有害であることが多いのですね。
ですから――
もし、「大切なのは知識ではない。思考である」を地で行くのなら――
それなりの覚悟が必要です。
それは、
――遊興の覚悟
です。
自分自身の思考が、ときに有害な結論を導出するかもしれないという――
が――
それはそれで、面白いではないか――
存分に楽しもう――
そういう覚悟です。
……
……
こういう覚悟を全うできる人は――
そうは多くありません。
それはそうです。
自分自身の営為が有害かもしれないとしたら――
そんな営為は、やめたくなるのが人情だからです。
……
……
「大切なのは知識ではない。思考である」という主張の背景には――
ある意味、壮絶な覚悟が秘められていることを――
僕らは肝に銘じておくのが良いでしょう。