マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

小説の『あとがき』は

 小説の『あとがき』は、よまない人が多いようなのだが――
 実際は、どうなのだろう?

 もちろん、作者が著名な場合は、この限りではないと思う。
 著名というだけで、人は、それなりの興味を抱く。

 問題は、それほど著名ではない場合だ。
 むしろ、無名の場合――

 僕はシッカリとよむ。
 著名、無名に関わらず、シッカリとよむ。

 小学校の頃から、そうだった。

 ――この物語を紡いだ人は、どんな人なんだろう?

 との思いからだ。

 つい最近まで――
 皆が、そうしているものだと、思っていた。

 どうも違うらしい。

 たしかに、

 ――物語の虚構を楽しむには、紡ぎ手の横顔は邪魔でしかない。

 という立場がありうる。
 紡ぎ手のプライベートを知って物語の世界が崩れることも、ないではない。

 僕が『あとがき』をシッカリとよむのは、僕が物語の紡ぎ手でもあるからだろう。
 自分で物語を紡ぐことに興味がなかったら『あとがき』をよむ気にはならぬかもしれぬ。

 そういえば――
『解説』というのがある。

 あれは、よむ気にならぬ。
 物語を解説することには、興味がないからだろう。