哲学というものは、議論の過程だけに意味があり、議論の終着には、ほとんど意味がない――
と考えている。
こう書くと、世の哲学ファンからは叱られそうだが――
少なくとも僕個人の正直な見解だから――
隠しても仕方がないと思っている。
およそ哲学的議論が導き出した結論に――
僕は満足したことがない。
どれも、
(いまいち――)
と思う。
哲学的議論が魅力的なのは――
議論の端緒ないし中盤までであり――
議論の終盤ないし末尾は、ほとんど蛇足といってもよい。
哲学を知の体系とみなすのは愚かなことだ。
「知」というのは、考え出された事柄のことである。
そうではなくて、哲学は技の体系である。
「技」というのは、考える技術のことだ。
こう書いても――
ほとんどの人はピンとこないかもしれない。
哲学を取り巻く現状は深刻で――
とても「体系」といえるほどには、整理されていないのである。
いや、一応は整理されている。
が、それは、あくまで「知の体系」としての整理であって――
「技の体系」としての整理ではない。
世の哲学入門書をみれば、わかる。
今日、書店には、多くの入門書が置かれているが――
そのほとんどが「知の体系」的な発想で書かれているようだ。
それらの難点は――
練習問題の欠如である。
哲学的に考える技術を身につける――
それが、入門書の第一の目的であるはずだ。
だから――
先人たちの解答などは不要なのである。
必要なのは問題であり、解説である。
哲学入門書は、読者に、哲学の問題に取り組む姿勢を体得させねばならない。
いくら問題の解答を俯瞰させたところで、まったく意味はないのである。
哲学の問題に取り組む姿勢は、個々の読者に固有のものである。
だから――
数学の練習問題集のようにはいかない。
哲学の練習問題集とは――
問題を提示し、その解説のみを付与し、解答は読者自身に書かせるような――
そういう問題集である。
哲学書は不要だ。
必要なのは、哲学問題集である。