マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

自分の汚さを

 歳をとっていくにつれ――
 自分の汚さを、どれくらい素直に受け入れるか――
 ということが、大切になってくると考えている。

 汚さというのは、簡単にいえば、老いのことである。

 誰しも――
 歳をとれば、肌の張りはなくなり、滑らかさは消え失せ、随所にシワが寄り――
 小さな病いを幾つも抱え、あるいは、節々が些細なことで痛みだす。

 老いとは――
 まず第一に、体の汚れである。

 表面的にも内部的にも、体は汚れていく。
 構造的な汚れ、あるいは、機能的な汚れといってもよい。

 が、それだけではない。
 心の汚れも見逃せない。むしろ、体の汚れよりも酷いのではないか。

 自分自身のことを振り返る。

 僕は、世間一般的には、まだまだ老いてはいないが――
 十代、二十代の頃に比べると、かなり老いている――体も心も着実に老いている。

 例えば、十代の頃のようには動けないし――
 十代の頃のようには感じられない。

 十代のように動いたら、すぐに疲れるし、ガタがくる。
 十代のように感じたら、すぐに呆れるし、失笑をする。

 どちらもイヤな汚れ方だが――
 よりイヤだと思うのは――
 過去の自分自身の感じ方に、呆れたり、失笑をしたりすることだ。

(なんと汚れてしまったのか)
 と落ち込んでしまう。

 過去の自分自身の感じ方を、ありのままに受け入れることが、どうして、できないのか。
 そこが悲しくて、ツラい。

 もちろん、「ありのままに受け入れる」とは、全面的に肯定するということではない。
(あの頃なら、ああやって感じても仕方なかったよな――当然だよな)
 と思い返す程度のことである。

 その程度のことすら、肯定できずにいる。

 が、そうしたことも含めて素直に受け入れることが、歳をとっていく上では大切だ、と――
 最近では思っている。

 ――十代の頃の自分は、全然わからないね――なんで、あんな風に感じてたんだろうね。

 と――

 そうやって、ありのままを放言することは、実に醜い。
 魂の老醜といってよい。

 が、そこで無理に物わかりをよくしても、かえって滑稽だ。

 仕方ないではないか。
 そうやって、人は老いていくのだから――

 昔のようには動けない――
 昔のようには感じられない――
 それだけのことである。