マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

男女のことは

 たいていの男にとって――
 男女のことは、女が女でなくなってからが勝負だと、思っている。

 ――自分の女だ。

 と思っていた女性が、ただの人になったときに、男の器量が試される。
「男の器量」というよりは、「人としての器量」といったほうがよい。

 一方、「女が女でなくなる」とは、

 ――特定の女性が、恋愛や性愛の対象だけではなくなる。

 ということだ。

 例えば――
 週末に逢瀬を重ねていた男女が、同棲を始めて半年くらいたったような状況を、思い浮かべればよい。

 半年も一緒に暮らせば、しだいに相手のアラもみえてくる――
 そういうことである。

 実は――
 こうした男女の理(ことわり)に、僕は早くから敏感だった。

 高校生の頃には、もう深刻に意識し始めていたと思う。

 なので――
 二十歳を過ぎる頃には、特定の女性を女とはみなさないような癖が、ついていた。

 愚かであった。

 そういうことでは――
 うまくいくものとて、うまくいきはしない。

 たしかに――
 男にとって、女は、いつかは女ではなくなる。

 が、だからといって――
 最初から女とみなさないというのでは、本末転倒なのだ。

 人としての器量に優れた男は――
 女が、いつか女でなくなることを承知の上で――
 それでも、その女の中に、女の艶を見出し続けねばならない。

 それが、口でいうほど、容易でないことは――
 ある程度の人生経験を積んだ男ならば、すぐに、わかることであろう。

 男女のことは、女が女でなくなってからが、勝負である。

 その前に――
 女を女とみなし続けねばならない。

 理性のブレーキが効きすぎる男には――
 なかなかに酷な要請である。