マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

内面世界の隔絶性

 自分の内面世界が、他の誰にも覗かれないものだと気づいたときは――
 いったい、いつのことだろう?

 子供によっては、小学校の低学年くらいまでは――
 例えば、自分が感じたことや考えたことが、自分の母親には筒抜けのような感じが、しているらしい。

 僕自身は、そういう感じをもったことがない。

 すでに幼稚園の頃には、筒抜けの感覚はなかった。
 自分の内面世界は、自分だけのものであった。

 だから、少なくとも僕の場合には――
 物心がついたのと、ほぼ同時に――
 自分の内面世界が含む外界からの隔絶性を、かなり明瞭に意識していたことになる。

 もしも、この隔絶性がなかったら――
 僕は小説書きにはなっていなかった。

 自分の内面世界が誰れかに筒抜けならば――
 自分の紡ぐ物語を、わざわざ文章に書き落とす必要はない。

 それ以前に――
 極力、上品な物語しか紡がないように努力していたことであろう。

 自分の紡いだ下品な物語が筒抜けになってしまうのでは、たまらない。

 そうなると――
 僕は、物語を紡ぐのではなく――
 物語を作っていたはずだ。

 たぶん、ろくな物語を作れなかったに違いない。

 小説書きの内面世界とは――
 さながら、ダムのようになっている。

 溢れ出づる物語を――
 あるいは、流れ来たる物語を――
 せきとめ、たくわえ、穏やかな水面に湛(たた)えている。

 そして、あるときに――
 ダムの堰を切って落とし、物語の濁流を放り出すのだ。

 その濁流の勢いが、そのまま物語の迫力となって表れる。

 つまり――
 小説書きの内面世界とは、その外界からの隔絶性が強ければ強いほどに――
 より熱い物語を、ほとばしらせるものに違いない。