マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

最期に残る自分の身なりは

 僕は、自分の身なりに気を使うということが、どうにもできぬらしい。
 幼児の頃から、そうである。

「あんたは赤ん坊の頃が一番よかった」
 と、母はいう。

 事実と思う。

 自分のアルバムをめくったときに、感じとった。
(オレは、3歳くらいまでは、非の打ちどころのない身なりをしていた)
 と――

 それから30年が経ち――
 今は欠陥だらけの身なりである。

 頭がパサパサでも気にならぬ――
 体がボッチャリでも気にならぬ――

 正しくは――
「気にならぬ」ではなく「気を使えぬ」なのだ。

 理由はハッキリしている。

 何となく気恥ずかしいということも、あるにはあるが――
 本質的には、技術の問題だと考えている。

 そういうことに気を使うノウハウがない。

 自分では気を使っているつもりでも、全く使えておらぬ。
 どうしようもない。

 そうした傾向は――
 僕の場合、なぜか、物語を紡ぎ、小説に書くようになってから、強まってきたように思う。

 僕は、自分が紡ぐ物語が整っていれば、満足できる。
 あるいは――
 その物語の人物たちが美しければ、満足できる――そういうタチである。

 物語を紡ぐようになってから、20年が経つ。
 今の物語は、20年前よりもムダがなく、その物語の人物たちは、20年前よりも美しい。

 他方、その物語を紡ぐ我が身を省みれば――
 身なりをドンドン崩していっている。
 最期は老醜だけが残るに違いない。

(いいじゃないか、それで――)
 と思う。

(自分の紡ぐ物語に満足し続けられるのならば、それでいいじゃないか)
 と――

(作家って、そもそも、そういう人種だろう?)
 と――

 物語を、紡いで紡いで紡ぎまくって――
 最期に残る自分の身なりはカスの寄せ集め――
 そういう作家に、僕はなるのであろう――もしも本当になれるのならば――