物語というのは、おそらく、どの2つをとっても、決して同じではあってはならぬのだと思う。
例えば、同じ小説を10度も読むのは、極めて稀な読者だ。
また、同じ映画を10度もみれば映画監督になれる、などといわれるくらいである。
似ているのは構わない。
いや――
むしろ、似ていることは重要であるのかもしれない。
事実、小説の世界でも、映画の世界でも、絶えず同じような物語が、その表層だけを変えて、何度も繰り返し紡がれている。
「全く同じ物語」が、ダメなのだ。
音楽は、これとは反する。
唄や曲は、全く同じであっても、構わない。
例えば、ヒット・ナンバーの唄や曲は、10度はおろか100度であっても、人々に喜んで聴かれている。
この際には、「全く同じ唄」や「全く同じ曲」は、何ら問題とはならぬのだ。
この違いが、何に依るのか――
今は、軽々に結論を出すのは控えよう。
が、この違いは、物語の紡ぎ手に、ある種の覚悟を迫る。
すなわち、物語の紡ぎ手は、常に物語を紡ぎ続けねばならぬ、ということである。
似ていてもいいから――
全く同じではない物語を紡ぎ続けねばならぬ、と――
紡ぐのは、たぶん、そんなに難しいことではない。
物語を紡ぎ続けていると、たとえ紡いでいる当人は常に同じような物語ばかりを紡いでいるつもりでも、必ず、微妙な変化を内包していく。
複写でもせぬ限り、「全く同じ物語」はありえまい。
物語が本当に好きな人というのは――
好きな物語の類型が明瞭である。
そして――
その類型を、類型として愛しながらも――
それに含まれる物語同士の違いこそを、愛している。
むろん、同じ類型の物語同士の違いは、僅かなものに決まっている。
その僅かな違いに、並々ならぬ関心を寄せていく――
そういう性向が――
物語を愛する人には、あるように思う。