マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

優等生的イヤらしさを

 30代になってからというもの――

 僕は――
 自分が、何と幸せな国の、何と幸せな時代に生まれたものか、と――
 深く感じ入ることが多い。

 こういうと、妙に優等生的イヤらしさが滲み出て、すごく気分が悪いのだが――
 でも――
 本当に、そう思うのだから、どうしようもない。

 もしも、紛争の絶えぬ国や時代、食物に乏しい国や時代に生まれていたら――
 今の僕は、決して、今のようではなかった。

 さっさと人生に絶望し、10代や20代のうちに死んでいたか――
 あるいは、絶望する余裕とてなく、誰にも気づかれることなく、死んでいたかもしれない。

 そう思うと――
 今の自分が抱える悩みなどは、取るに足らぬ小事である。

 僕が、こういう思いを忘れずにいられるのは――
 紛争の絶えぬ国や時代、食物に乏しい国や時代についての関心が、持続しているからであろう。

 例えば、TVや雑誌やネットなどで、そういう国や時代の話に触れた時は、つい真剣に見入ってしまう。

 こういうと、ますます、優等生的になって、イヤらしくなるのだが――
 見方を変えれば――
 これは、自分の品性の卑しさを示しているだけかもしれない。

 実は、

 ――他人の不幸は蜜の味

 であるだけなのではないか。

 僕が、紛争の絶えぬ国や時代、あるいは食物に乏しい国や時代の話を、積極的に見聞きするのは――
 単に、今の自分に不満を抱く自分を、誤摩化し半分に慰めているだけかもしれない。

 そう思うと、かえって気持ちは楽になる。

 TVカメラの前で銃弾に倒れる兵士たち――
 手足だけがガリガリに痩せ細った子供たち――

 大東亜共栄圏の樹立の使命を押し付けられた若者たち――
 生まれた我が子に乳を飲ませられなかった銃後の婦人たち――

 そういうものに関心がゆくのは――
 そういう人たちに関心があるから、とは限らない。

 そうではない自分や家族の境遇に、ただ安堵したいだけなのかもしれない。

 それなら、それでも、よいではないか。

 人間は、そんなに高級には作られていないのだ。

 そして――
 そういう人間の一人が、僕である。

 とくに不思議はない。

 むしろ、優等生的イヤらしさを意識しているほうが、イヤらしいのか。