マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

歴史を語るように自然を語る

 自然を語るということと、歴史を語るということは――
 基本的には同じことだろうと考えております。

 歴史は、とりあえずは客観的な事実に基づいて語られるべきものですが――
 その際に、何が客観かを判断しているのは、結局は、歴史家の主観です。

 優れた歴史家は、歴史を最後は主観で捉えます。
 主観で捉えた歴史を、重厚な物語として紡ぎ出します。

 その主観が、一面的ではなく、多面的であるがゆえに――
 紡ぎ出される物語が重厚になるのです。

 決して――
 歴史を客観で捉えているから、紡ぎ出される物語が重厚になるのではありません。

 自然の語り方も、同じようであっていいと、僕は考えています。
 多面的な主観で自然を捉えるのです。

 が――
 このことは、少なくとも平均的な科学者にとっては、おそらくは困難でしょう。

 科学者は、自然を常に客観で捉えようとします。
 そうでなければ、有意義な科学的知見を手にすることなど、できないにないからです。

 が――
 それでは、科学者以外の人々が困ってしまいます。

 自然のことは、常に客観で捉えようとする科学者によって紡がれた物語では、どうにもよく伝わらないからです。

 自然の振る舞いを究めることと自然の物語を紡ぐこととは、本質的に別物であるのだ、ということを――
 科学者以外の人々も、科学者も、強く意識することが必要でしょう。